ゆうべ見た夢

浅生ハルミン

 昼間でも夜ベッドに入った時でも、目をつむると暗黒の空間があらわれますが、それはどのくらいの面積や高さや奥行きがありますか。私の場合、両目を起点にして顔の周りに、西瓜を切り分けたような、櫛形のステージが見えます。今ちょっとやってみたら、扇型であるような気もしてきました。天井は行き止まりではなさそうな、逆・底なしの井戸という感じもするし、意外と浅いような気もします。意識が眠りにほうに傾いていくと、櫛形のステージの輪郭も曖昧にぼやけて、次に気がつくのは目が覚めたときです。
 その目覚めの直前に、私は夢を見ています。夢の中ではJR山手線の日暮里駅と上野駅の間に岩井駅という駅が増えていたり、会ったことのない有名人が私に欲しいものを授けてくれたり、そうしたあり得ない出来事が何食わぬ感じで連鎖しています。自分では考えつかないようなストーリーの夢を見ることもあります。夢から覚めた時の気持ちは「なんだったんだ、ああ面白かった」。掛け布団を払い除けて、歯を磨くと水に流されてしまう気がするので磨かず、忘れないうちにメモをしたり、Twitterに書き込みます。指先からつるつると、チューブの絵の具のように押し出されてくる言葉や場面の連なりは、本当に私が考えたことなんだろうか。もし私が考えていないとしたら誰が考えているんだろうか。

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 長い夢を見た。出来事が鮮明ですごかった。――春、夢の中で私は山手通りを歩いているようだった。その辺りは道路拡張のせいで、長いあいだ工事をしていた。蕎麦屋、焼き鳥屋、ピッツェリア、自転車屋、生花店、中華飯店が並んでいた。そこに放置自転車やバイクや工事用ガードフェンスが混じり込んだ、落ち着かない景色だった。それを私は見慣れた景色のように感じているようだった。川沿いの桜並木に提灯が下げられて、遠い町からも花見客がやってきて観光地のように混雑していた。
 その古い一軒家のお店。いつもシャッターが降りているのに、珍しく途中まで上がっている。シャッターは一枚ものではなく、右半分と左半分に分かれ、独立して上げ下げが可能なタイプで、今は左半分が上がっているので白いスプレーペンキで落書きされた「silence」という文字が「nce」とだけ見えている。確かこの店は、元気な時は印鑑屋さんだったような気がした。店内は商品も什器もなんにもない、すべて取り払われて、ざらざらとした土埃が入り込んでいた。おじいさんが折りたたみ椅子に腰掛けて、お店を営業していた時分もそのように腰掛けていたんだろう、という様子で店番をしていた。売り場の奥には六畳間があって、そのまた奥には縁側もあるようだった。ガラス戸は開け放たれて、おんぼろなのに気持ちが良く、木っ端と土埃の積もった六畳間にはよく陽が当っていた。
 おじいさんは阪神タイガースのユニフォームを着て、黄色いメガホンを首から下げていた。印鑑屋さんは阪神ファンだったのか。こんな格好で店番だなんて、この界隈の名物おじいさんかなにか? まあそのお歳までお店を続けてこられたとなれば、好きな服を着たっていいよね、と私は納得していた。
 おじいさんは立ち上がった。背が高くてひょろりとしていた。足元に灰色の猫が二匹、まとわりついて遊んでいる。
 はんこ屋さん、猫飼ってたんですね。
私はしゃがんで猫を撫でようとした。
「猫とね、いつも一緒にいてね。猫がいないなんて考えらんないよ」
 ですよねえ、はんこ屋さんは猫好きだったんですね。
「好きなんてもんじゃないよ。ずっと一緒だよ」
 私も猫すきです。ちょっと触っていいですか。
おじいさんは、「どうぞどうぞ」と言って、パイプ椅子を店の外に持ち出して自分はそこに座った。私は思う存分猫を触ったり、床で猫と同じ低い目線になることを楽しんだ。おじいさんは自分の猫歴を語り、世田谷区の奥地にある川辺でこの猫たちを拾ったと言った。
 
 私は、その世田谷の奥地をくねくね蛇行して流れる川辺まで歩いていった。カラスノエンドウやオオイヌノフグリがはびこって、晴れた空をさえぎるもののない土の道を気持ちよく歩いた。ハナニラや野生のチューリップの匂いがして、もう何十年も前の春、小学校に入学した四月、自分の家から初めてひとりきりで遠くにある学校まで歩いた時、自分の家の庭の松やさつきといった、その時は老人趣味と思えて無視していた庭木ではない可憐な花が、通学路の途中の野原に勝手気ままに生えているの目の当たりにして、まるで外国に来たみたいな夢うつつな気持ちになったことが思い出された。夢うつつ、というのは、欧米の少女が野の花を摘んで髪の毛に編み込む「ティモテ」のような感じを思っていただけたら幸いです。話がずれてしまいましたが、夢の中で夢うつつになったり、思い出が蘇るなんておかしいかもしれないけれど、春の野草のはびこった景色と、そのむうんとした匂いは私の脳内でセットになっている。夢の中でも。匂いの記憶は、脳味噌のどのあたりに格納されているのか私は知るに至っておりませんが、春の植物の匂いを感じると、身体の奥底に何かが湧き出たり、もよおしたりしませんか。

 おじいさんの言ったとおり、私は世田谷の奥地の川を歩いたのちに、荻窪であるらしき見知らぬ住宅地をさまよった。そこは、実際には荻窪とは何十キロも離れている、我が家の近所のお地蔵さんのあるY字路の、いつも行かない方の道の先にある町として夢にあらわれた。穏やかな町を歩きながら、おじいさんの猫歴と縁のある場所をたどり、おじいさんが猫と過ごした時間を想像して、私は夢の中でひと仕事終えた満足な気持ちになっていた。
 川に行ったことをおじいさんに報告しようと思った。店の前まで行ってみるとシャッターが降りていた。当分は開きそうにない雰囲気だった。そうだよねえ、そんなにちょうどよく開いているわけがないよねえと肩を落とした。生花店のご主人がじょうろを持って店から出てきた。店先の売り物の鉢植えに水分補給をしているようだった。
 はんこ屋さん、今度はいつ開きそうですか?
「はんこ屋さんはおじいさんがずいぶん前に亡くなって、息子さんが今度ビルに建て替えるって言ってたよ。もう商売やめちゃうんじゃないかなあ。だってこの通りははんこ屋さんが他に2軒もあるからねえ」
 確かに同じ通りに成美堂、善文堂というお店が並んでいた。おじいさんの印鑑屋さんの閉まったままのシャッターには、「silence」というスプレーの落書きがあいかわらず、消されずにあった。よく見るとその下から「宮尾印店」という太字の屋号が浮かび上がってきた。えっ?ミャオですか?