話の話 第3話:忘れえぬナンパ師たち

戸田昌子

とりあえず細かい事情は省くが、若い頃、ボストンに半年ほど住んでいたことがある。ある日のこと、宿の向かいにあったカフェでチャイティーを飲んだあと、天気が良かったので外のベンチで足を投げ出してひなたぼっこをしていた。するとアメリカ人のおにいちゃんがその足につまづいて……ではなく、つまづいたふりをして、おっとっと、と大袈裟に転ぶ格好をしたあと近づいてきて、「君さ、まるでその靴のモデルさんみたいだよ!」と言い出した。そのとき私が履いていた靴は、妹のマウンテンブーツ。妹も私も山登りはしないが、服飾の勉強をしてモデルさんもやっていたことのある妹の選ぶものはいつも趣味が良い。どこのブランドだったかは忘れたが、この大きくて頑丈なウォータープルーフのブーツは妹がフランス留学する時に日本に置いていったもので、私がアメリカへ渡るとき、「頑丈な靴があったほうがいいから……」と半ば堂々とパクった靴であった。「洋服が黒いしさ、靴がとっても映えるよ! 靴、売ってくれるの?」などとその彼はその靴の件を深掘りしようとしている。ちなみに当時の私は毎日、ほぼ着の身着のままだったので、そのとき着ていた服は濃いグレーの、ウールの地味なマキシワンピースに、黒のタートルと黒のパーカー、ウエストポーチが標準装備だったはず。暖かい日だったから、きっと9月ごろ。なぜならボストンは10月にもなると厳しく冷たい風が吹き始めるのだから……。当時、知り合いもあまりいないボストンだったから、わたしは、そんなふうに街中で人に話しかけられて話したりすることがたびたびあった。相手にも電話番号をいきなり聞き出そうとか、いわゆるナンパの感じはあまりなかった。いま思えばかの地では、街中で女の子に声をかけるのは礼儀の一環、みたいなところもあった気がする。わたしはひとしきり話したあと、なにか楽しい気分でそこに座り続けていた記憶がある。ちなみにそのカフェには虹色のフラッグがいつもはためいていた。

しかしナンパの本場といえばやはりフランスである。私の妹は19歳でフランスに留学し、そのまま現在まで外国暮らしを続けている強者だが、数限りないナンパに遭遇した。妹がパリに住んでまだ2年ほどのころ、遊びに来ていた母を美術館に案内していたときに美術館警備員にナンパされたということがあった。明らかに勤務時間中の警備員は「ぼく、このあと仕事が○時に終わるから、そしたらお茶飲みにいこうよ」と妹を誘ったので、妹は「母と一緒なので(だめです)」と断った。すると彼、「それなら、ぜひお母様もぜひご一緒に!!!」とのたもうた。さすがのフランス人、お母様付きでもナンパを諦めない、と、聞いた誰しもが驚嘆した、という話。

一方、日本のナンパにはこうしたエスプリは感じない。私の大学院生時代、常磐線沿線に出没していた、なぜか東大女子を見分ける特殊能力を発揮するテンガロンハットをかぶったナンパオヤジがいた。なんのことやらさっぱり、なのだが、ある日、わたしが研究会での発表を控え、日暮里駅に近いドトールの2階で発表資料を読み込んでいたときのこと。私の資料をちろちろ覗き込んでいた、明らかに周囲に溶け込まないテンガロンハットの50歳前後の男性が、「勉強しているの?」と、にこにことわたしに話しかけてきた。無視するのも感じが悪いので、「あぁ……これから研究会で、発表なんです(一人にしてもらえないかな、の意)」と言ったら、「そう、きみ東大?」と尋ねてくる。「そうです」と言ったら、「僕、東大で教えているんだよ」と言い始める。え、先生なのか、とちょっと引き気味になると、自分は普段はアメリカに住んでいるのだけれどもいまは東大の理系の研究室に一時的に在籍しているのだと説明する。理系にはいろんな客員研究員や授業を持たない教員などが無数にいるので、なるほどと思いつつ、話をやめない彼にうんざりし、「先を急ぎますので」とドトールを出ることにした。翌日、研究室で「昨日変な人に会ってさ」と後輩女子にその話をしたら「え、その人、テンガロンハットかぶっていませんでしたか?」と言い始める。「そうだよ」とわたし。「それならその人、私がナンパされた人と同じです。なぜか東大女子を見分ける特殊能力があって、他にも声かけられた人がいるんです。常磐線沿線に出没しがちです」と教えてくれた。ちなみに彼がほんとうに東大で教えているかどうかについて、真実はいまだ明らかになっていない。

私の場合、ナンパされていたのに、そのときは気づかず、あとで気づくケース、というのもある。ニューヨークにいた頃、ルームメートの所属する研究室のハッピーアワーというイベントへ行ったことがある。それはジャンルを超えた研究者の交流会で、言ってみれば大学院生の懇親会だったのだが、そこで出会ったブライアンという名の黒髪の青年に「きみ、写真の研究者なの?ぼくは映画研究者なんだ。ジャンルも近いから電話番号交換しようよ。ぼくね、日本に行ったことがあるんだよ。リュージュっていうスポーツをやってて、長野五輪のときは補欠で行ったんだ。競技には出られなかったけど。日本はいい国だね!」とまくしたてられて、電話番号を交換した。その2週間後、ルームメートとともに大学で行われた夜間映画のイベントに行ったとき(上映作品は是枝裕和「幻の光」だった)、ルームメートが短髪の男性と立ち話を始めた。その男性が私に話しかけるので、「はじめまして、戸田昌子です、写真の研究をしています」と自己紹介をした。その男性は、どうやら映画の研究をしていて、日本にも長野五輪で行ったことがあって、名前はブライアンだと言っている。前に会ったことのあるブライアンと似た経歴なので、私は思わず、「私ね、映画の研究者で、リュージュやってて、ブライアンという名前の人に会ったことがあるよ」と応答した。すると彼は「そう、ぼくがそのブライアン」と言った。同一人物であった。「お、おぅ……」となった私は、「だってほら、髪型が……違う……」などと、もごもご言ってから謝ることしきり。その脇でルームメートが爆笑している。あまりの恥ずかしさに早々に退散した帰り道、ルームメートは「そもそも彼は昌子に気があったんだから!あれはさすがにひどいねー」などと言う。そもそもの電話番号交換はナンパだったのか、とショックを受けている私。かたわらでルームメートは「これで、完璧に諦めてくれたね。ユー、バッドガール!」などと喜んでいる。それと知らずに撃沈してしまうまで、ナンパに気づかないというのも困ったものである。

ちょっとびっくりするようなナンパと言えば、これもだいぶ昔の話だけれど、研究会に参加するために大阪に出かけたときのことだった。二泊三日のうち用事は飛び石だったので、2日目はすることがなかった。ひとりきりだったし、真夏だったし、東京を離れていて解放感があったためか、普段は履かないようなシフォンの焦茶色の短いスカートにNatural Beauty Basicのヌーディーなサンダルを履いて、ブルーのノースリーブで美術館へ出かけた。千里中央の駅でコーヒーを飲んでから駅のホームに立っていると、「日本庭園はこちらですか?」とかなり高齢のおじいさんに尋ねられた。フリーパスを使って日本庭園へ行きたいのだという。私は万博公園へ向かっていたので、「同じ方向ですからご案内しましょう」と、どうせ暇なこともあって親切心を出し、日本庭園まで案内することにした。道中、その方が長年にわたり鰻屋のご主人だったこと、仕事はもう息子さんに譲ったのだという話を聞く。しかも生まれてこの方、大阪を一度も出たことのないという81歳であった。そんな話をしているうちに日本庭園に着いた。「日本庭園はこちらです、私は万博公園まで参りますので」とお別れしようとしたら、「どうせ暇なので、美術館、僕もご一緒します」と言い始める。私は少しためらった。その方は少し足腰がおぼつかないし、なにしろこれから私が見に行く展示はメールヌード、しかもファットヌードの展示である(ローリー・トビー・エディソン展、国立国際美術館、2001年)。おじいさんは卒倒してしまうかもしれない。「写真ですよ?あまり面白くないかも」と言ってはみるが、あまり具体的に言うわけにもいかず、らちがあかないので、ええい、ままよ、と同行することにした。駅を降り、ゆっくり歩いて美術館へ向かい、男性器の存在もあらわな写真を、(普段こんな写真ばかり見ているわけではありません)と心のなかで言い訳しながら、展示室をまわっていく。おじいさんは黙ってゆっくりついてくる。展示室を出るとほっとして、日本庭園へと向かうことになった。到着すると、おじいさんは「おつきあいさせてすみませんね、お茶でもおごりましょう」とペットボトルのお茶を買ってくれ、日本庭園を眺めながらふたりでお茶を飲んだ。時間はゆっくりと経ち、夕闇が迫ってくる。では、そろそろ帰りますと立ち上がるとおじいさんは「今日は、勇気を出してお声をかけてほんとうによかった。とても楽しかったです」と言われ、私の両手を握りしめた。見ると、目には涙が浮かんでいる。「電話番号はお聞きしません。このまま綺麗にお別れしましょう。今日の思い出は冥土の土産になります。どうもありがとう」とおじいさんは重ねて言う。当方としては道に不案内なお年寄りをエスコートしていたつもりが、どうやらナンパされていたらしい(よくよく考えてみれば、生まれ育ちも大阪のおじいさんが、東京から来た若い娘に電車の乗り方をたずねるはずもないわけである)。けれどおじいさんは真剣である。なんと言っていいかわからないまま、こちらこそ、楽しかったです、と、私はもごもご言って、呆然としながらお別れをした。東京に戻ったあと、母にこの話をしたら、「あら!それはまあちゃん、とってもいいことしたわねぇ!」と快活な声を出されて、気持ちがすっきりした。ときどき思い出すナンパ話である。

先日、美しいダンサーの友人と、久しぶりにお茶をした。海外生活の長かった彼女は、コロナ禍で鬱屈していて、そろそろ海外へ踊りに行きたいのだと言う。二人でどこがいいか、根拠もなしに適当なことを言い合っていて、南イタリアがいいんじゃない?となった。南イタリアといえばやはりあれよね「苦い米」って映画があるじゃない、と私が言う。「ああ、あれは父のfavoriteなのよ」と彼女が応える。「あの映画すごいよね、ひらひらのワンピースをお股のところでたくしあげて、田植えをするじゃない。信じられる? ワンピースで田植えよ!」と私が言うと、「でもイタリアで田植えに出る女の子たちって、あれでナンパしたりされたりして、デートの相手を見つけるのよね、そのために田植えに行くでしょう」と彼女。確かに南イタリアの田植え労働にはそういう文化的背景があるのだとどこかで読んだことがある。納得しかかったとき、「でも、うちの祖母はまさにそれで祖父に見初められたのよ」と彼女が言い始めた。それは、友人の祖母が川に洗濯に行ったときのことである。お着物の裾を(まるで「苦い米」のように)お股のところでたくしあげて、両足を川に突っ込んで、ごしごしと洗濯をしていた友人の祖母を、通り過ぎる汽車から見初めたのが、その友人の祖父であった。彼は会津の人で、会津戦争のあと北海道に追われたが、樺戸の刑務所の囚人に作らせた家具を内地で売る仕事で成功した商人であったという。ビジネスに成功して会津に凱旋し、そこで友人の祖母に出会った。「でね、その足がね、白くて立派な太腿だったらしいの!祖父はそれを見初めて、人を遣って祖母に申し込んだの」と友人は言う。たいへんなかなかに風雅で色気のある話。

ある日、私がふと「最近ナンパされないんだよね」とつぶやくと、夫がふうんという感じで、「最近ってどれくらい?」と聞く。ちょっと考えて私「そうね、15年くらい」と答える。「15年はちっとも最近じゃないじゃないか」という言葉を飲み込んでいる様子の、しばしの間があったあと、夫「分かった、それじゃあ質問を変えよう。ナンパされたい?」と尋ねてきた。しばし考えたあと、私「んーとね、ナンパを断りたい」。しばらく押し黙った夫だったが、その後「……わかる」とつぶやいた。そんな私であるが、つい最近、京都で久しぶりにナンパされてしまい(京都め!)、せっかくの長年ナンパされなかった歴が破られてしまった。いささか残念なので、この話は今回は、やめておく。