話の話 第6話:どうしても覚えられない

戸田昌子

わたしはいまひかりの座席に座っている。東海道新幹線のひかりである。京都へ向かっている。なのにどうしてのぞみでなくて、ひかりなのか。周知のように東海道新幹線は、のぞみ、ひかり、こだま、の順番で到着が早い。そしてのぞみは問題なく京都に止まるというのに、なぜわたしはひかりのきっぷを買ってしまったのか。それはたぶん大雨のせいだ。そしてたぶん、わたしのクレジットカードだけはいつも受け付けてくれない駅の(おそらくは旧型の)自動券売機にいらいらして。ホームに入線する新幹線を見てからようやくそれがひかりであることに気づいたという次第で、つい「こだまでしょうか?」「いいえ、ひかりで」とつぶやいている。

一時期ほどではないけれど、新幹線にはまあまあ乗る。いっときは週1くらいで乗っていた。いったい何百回乗れば覚えられるのか、と思いつつ、どうしても覚えられないことはあるのだ、とも思う。たとえばごみの分別収集日。何曜日が燃えるゴミの日で、何曜日が燃えないゴミの日なのかを、わたしは覚えない。覚えないことにしている、と言うべきかもしれない。なぜなら、もし覚えてしまうと、収集日にゴミを玄関先に持っていくのがわたしの仕事になってしまうからである。そうすると、夫の数少ない家事分担率が減ってしまうではないか。妻たるわたしが夫の仕事を奪うわけにはいかない。つまりは夫のためにも、わたしはごみ収集日を覚えるわけにはいかない、という必然的な理由もあるのである。これは、麻雀に似ている。いったん麻雀を覚えてしまうと、先輩諸賢にカモにされてしまうので、覚えないままの方がいい、という例の教訓的なあれである。世の中には覚えないほうがいいこと、というのが確かにある。

覚えないほうがいいことの筆頭が、煙草である。煙草をいったんのんでしまうと、その後、その人は煙草をのむ人生とのまない人生の二つの選択肢のあいだで揺れ動くことになる。のんだことがなければ、のんでみようか、という選択肢があるのみである。たばこをのまない人には選択肢は1択、のむひとには2択である。こういう選択肢の数の増減問題は、意外に気づかれていないようだ。ひとは中立な場所で、ものごとを選ばない。覚えてしまってからやめる、というのは、覚えない、ということと同じにはならないのである。

わたしがもっとも覚えられないのが、人の名前である。覚えようとするのだけれど、むずかしい。人の名前を覚えなければならない局面というのが、大抵、講演の直前や授業時などの、集中と緊張を強いられる状況が多いため、人の名前を覚えるどころではないからかもしれない。そのため、「名前を覚えるのが苦手なので、何度かお名前聞きますけど、いいですか?」とはじめに言うようにしている。アメリカに初めて行ったときも、何度か名前を尋ねても失礼ではない英語の言い回しは、友達に聞いてかなり早くに覚えた。「What did you say your name was?」というのである。これなら、「お名前、いちど伺ったんですけど、もう一回聞いていいですか?」というニュアンスが出る。自分の記憶力の悪さをアピールする方法である。これなら気を悪くされることは、たぶん、ない。

自分が名前を覚えないため、他人が自分の名前を覚えなくても全く気にしないことにしている。むしろ、わたしのような者は覚えてもらっていなくても当然、と思っているので、特に目上の相手には、自分の名前を何度も言うように気をつけてもいる。覚えられていなくても名前が認知できるように、という親切心からである。しかし、あるときだいぶ年上の評論家に10回目くらいに会ったとき「わたし戸田と申します」と言ったら「知ってるよ!」と、ずいぶんとムッとした反応をされたことがある。わたしとしては、飲み会で何度か同席しているくらいで覚えていただかなくても気にはしないのだが。というよりむしろわたしの存在など忘れてほしいといつも思っている。

さらに、最も名前を覚えられないケースというのが、苦手な人の名前である。これはどうやらある種の自動消去機能がわたしの頭脳にはついているようで、たとえばその人の本を何冊も持っていたとしても、覚えられないのである。いつでも、「だれだっけあのムカつくやつ、なんだか木へんがついていた気がする」とか「あのなんだか田んぼみたいな変な名前の……」と、などと言っている。実務的には困るので、パソコンのスティッキーズというアプリに、そんな理由で忘れられがちな人々の名前がリストにしてあって、必要な時にはそれを開く。しかしいったん開くと苦手な人たちの名前がリストになってダーっと出てくるので、それはそれで心の闇に引火する可能性があるため、あまり他人におすすめはできない。

さらには、どうしても覚えられない地名や固有名詞というのがある。なにか響きが似ていて、他のものに頭の中で置き換わってしまいがちなやつである。そうした地名の代表格が、わたしにとっての出町柳と四條畷である。でまちやなぎとしじょうなわて。言うまでもないが出町柳は京都の鴨川デルタの近くの駅名、四條畷は大阪は北河内にある市の名前で、名門の府立高校があることでも知られる。もちろんこの双方には、なんら関連性はない。共通点といえば、それらがともに3文字の漢字からなる6文字の地名であること、最初の漢字の1文字に1音が充てられていることくらいで、その音のリズム感によってこのふたつがわたしのなかで置き換えられる理由らしいのだが、これを関西在住の鳩尾に話しても、きょとんとするばかりで、まったく理解するとっかかりがないようだ。鳩尾にとっては関西の地名は馴染みすぎていて、間違いようがないのである。

ちなみにこの鳩尾とは、いつもカレーを食べる。カレーは烏丸御池のカマルのものである。この店はそのむかし、東京は原宿で伝説的な人気を誇ったカレー店「Ghee」の味を継承している銘店で、京都文化博物館の向かいにある。鳩尾とはいつも一仕事終えたあとにそこへ行く。虹色の美しいお漬物がみじん切りになって提供されるのが嬉しい。かつては乗せ放題だったのだが、今では別料金になっていて、不満を述べつつ、それを必ず頼む。わたしたちは長細い皿の両側に別の種類のカレーを組み合わせる合がけがお気に入りで、わたしはキーマカレーとバターチキンをよく頼む。ゆるベジタリアンの鳩尾は野菜系のものをよく頼む。今回の仕事もハードだったね、などと互いの傷を舐め合いながらカレーを食べ、ビールで乾杯する。ここではかつて、作品のネタとなった事件の話をすることが多い。なぜ喜志田が毎回、話の本筋とは関係なく刺されてしまうのかは謎である。致命傷であったことはない。たぶん前世の因果が悪いのではないだろうか。店内はうす暗くて、妙に静かである。店員の顔もいつも違っているように見えて、どうしても覚えることができない。

みょうがを食べると物忘れをする、と言われている。いろんなことが覚えられない私にとっては、物忘れは大変な問題である。そのため、みょうがを刻むたびに「これでわたしはいったい何を忘れていまうのだろうか」といちいち考えてしまう。つまり、みょうがを見るたび思い出してしまう、というわけで、これではいったいぜんたい、物忘れどころではないのではないだろうか。みょうがを刻むたびに、いつになったらこの言い回しを忘れることができるのだろう、と考えている。

そういえばさっき、レモンをしぼっていて思い出してしまったことがある。むかし、わたしの友人の勤めていた会社に不倫カップルがいた。女性のほうは独身で、男性のほうは既婚者であった。あるとき会社の社員旅行があり、ハワイに行くことになった。友人とその不倫カップルは同じグループで、皆で喫茶店でお茶を飲むことになって、その不倫カップルがともにアイスレモンティーを頼んだ。それだけでは別に変なことではない。しかし、その女性のほうが、自分のグラスのうえにレモンを絞ったあと、その彼のグラスに「わたしのレモンもあげるね」と言って、相手の返事もきかずに自分のレモンを彼のグラスの上で絞ったのだという。きれいにマニキュアを塗った彼女の指から滴り落ちるレモン汁を見ながら、友人は、「このふたり、できてる……」と勘づいたのだ、と私に話していた。わたしといえば、滴り落ちるレモン汁を見つめていた友人の深刻な顔を想像して、思わず笑ったのだった。そのときまで友人にはほぼ恋愛経験がなかったと聞いているので、かえって敏感に雰囲気を察知したのだろうか。レモンを絞るたびにどうしても思い出してしまう話。

「このふたり、できてる……」

慣れない外国語は、覚えづらい。父が母とともに、初めてパリへ行ったときのこと。父は、フランス語のさようならであるところの「Au revoir」を覚えようとして、どうやら楽器の「オーボエ」と覚えてしまったらしく、デパートやお店を出る時にいちいち「オーボエ」と言っていた。「オーボエ」は少し変だね、と姉たちと笑ってしまったが、実際のところ、間違いのレベルとしては、日本語の「さよなら」を「さよなれ」と言うくらいの間違いなんじゃないかね、という話になった。確かに、日本に来ている外国人が「さよなら」を「さよなれ」と言っていたとしても、それはそれで確かに通じないということはない。むしろ微笑ましい間違いという程度のものなのではないだろうか。

「じゃあね、さよなれ!」