咳をしても一人……というわけもなく狭いアパートに三人家族で暮らしているのだが、こんこんと咳き込んでいる間に二月を見送ろうとしているのは確かだ。高熱に浮かされたこどもを看病しながら飛沫をあびまくった結果、本人がすっかり元気になって走り回るころには、代わりにわたしが布団に臥せっていた。きっと、性質の悪いインフルエンザに違いない。だから、ベルリンの日本大使館に在外投票に出かけた二月一日以降の記憶があまりない。ようやく起き上がり外に出られるようになった頃には、日もずいぶんと長くなり、シジュウカラ(こちらのシジュウカラは鮮やかな黄色のお腹をしている)が巣の材料を探して飛び回り、素敵なさえずりを響かせていた。
最高潮に調子が悪かった時期、義理の兄のヤーニスが休暇をとってベルリンにやってきた。かれはドイツ西部のボーフムのWG(ヴェーゲー)つまり共同住宅に六人で暮らしているのだが、休みになると一人になりたくてうちに泊まり、タブレットを抱えて小部屋に引きこもってアニメ三昧で過ごすことにしているらしい。かれがいるとこどもは嬉しいし、完全に病人のわたしに代わって家事をやってくれるしで、正直とても助かった。
ヤーニスがいま特にはまっているのはいわゆる「異世界転生」もので、一日一シーズンの勢いで制覇しオンラインで見られるものはだいたい二周目に入っているという。わたしはそのへんの知識が全くないので、リクエストに応じてアニメに出てくる料理を作ってあげたりするだけだが、かれのうんちくを聞きながら、もしかするとわたしもどこかで異世界に転生したんではないか、という気がしてきた。41度台の熱で朦朧としながら、選挙を勝ち取った日本という国のリーダーたちの顔を見、毎日公開されるなんとか文書の関係者の顔や、よその国をテロ国家と名指しするテロ国家の元首の顔を見ながら、吐き気がひどくなってスマートフォンを放り投げた。空気を入れ替えよう、と窓を開けると、固く凍りついた残雪はすっかり消えてなくなり、路上に、まるひと冬のあいだヒトが投げ捨て、ヒトが連れ歩く犬たちが残したぞっとするような量の汚物が露わになっていた。しかし世界のどこを見ても、うちの前の通りそっくりじゃないか。でも、残念なことに世界には、通りや公園の汚物を一夜にして片付けてくれる、魔法使いみたいなBSR(ベルリン市清掃局)はいない。
ごみだらけの辻々を嬉々として跳躍するクロウタドリたち、軒先からリンデン(西洋菩提樹)へすばやく渡りあるくリスたちや、そして、たまに何食わぬ顔ですたこら歩いている街のキツネたちは本当にすごい、といつも思う。ヒトが自分の汚物で埋めたてた空間、直線にしか進まずいつか終わることにされている壊れた時間とはまるで違う時空で生き、全然違う風景のレイヤーを見ている。擬人化せずにはほかの生きものを──移民もこどもも宇宙生命体も──愛せない人にはきっとそれが見えない。できるならキツネに転生したい。しゃれこうべ柄のデザインがおかしいヒメジュウジナガムシでもいいし、厄介もののイタドリでも、サルオガセ(これだと二種共生欲張りセットだ)でも、べつにだれでもいいけど。
そうこうしているうちに、ベルリン、ノイケルンでの暮らしも終わりに近づいてきた。連れの転職先が見つかり、急きょドイツ西部への引っ越しが決まったから。ようやくできた仲間たちとの別れは名残惜しいが、少し距離が離れたところで何も変わりはしない、とお互い知っている。転生はつづく。