前回までのあらすじ……横着しないで前号のバックナンバーを読みましょうね。
目が覚めた。いや、意識が徐々に戻ってきたと言うべきか。おれはストレッチャーに載せられ、シリツ室から病室へ運ばれているらしい、ということがぼんやりとわかってきた。
そうか、シリツが終わったのだ。成功したのだろうか。何時間かかったのか。術前の説明で執刀医は「九十分ほど」と言っていたので、ぴったりなら想定内、それ以上かかっていたらやや苦戦したということだろう。おれはどうやって時刻を確認したのか、まるっきり覚えていない。ナースに訊いたのか、運ばれた病室の時計で確認したのか、今となっては皆目検討がつかない。だが午前十一時三十七分だったということはくっきりと覚えている。手術開始時刻が午前八時三十分からだったので、予定通りなら九十分後の午前十時にはシリツ終了のはずではないのか。時間がかかり過ぎだろう。いまが午前十一時三十七分ならば、何時間かかったことになるのか。三時間か。三時間は九十分の二倍ではないのか。ウッソー、ヨクワカンナイと思ったら、再び意識が混濁した。次に痛みで目覚めたのは午後一時だった。
二月二日の午前八時三十分、おれは大学病院のシリツ室に横たわっていた。まず腰のあたりに硬膜外麻酔のチューブを挿入された。これが痛かった。次に左手の甲に点滴用の針をブスリと刺され、口元は麻酔のマスクで塞がれた。
「大きく深呼吸してくださーい。すぐ眠れますからね」
おれは言う通りに大きく息を吸った。ゆっくりと五回吸ったが、意識がまったく薄れてこない。
「大丈夫かな。麻酔が効いてこないじゃん」
そう思った瞬間、それからの記憶が三時間消えた。
気がつけば午前十一時三十七分だったのだ。頭が朦朧としていて、記憶が曖昧だが、再び午後一時に目覚めたおれは左膝の激痛でどうしようもない状態になっていた。ベッドのそばにいる誰かに助けを求めた。誰か、と書いたのはそれがナースなのか医師なのか記憶がないからだ。ツマではない。シリツ当日の面会は禁止されていたから、それは確かである。とにかく呻き声で、
「痛くて痛くてどうしようもありません。麻酔を追加してください」
というような意味の言葉を吐いたことは確かだ。
シリツ時に腰へ入れたチューブは硬膜外麻酔だから、そのボタンを自分で押しなさい、と誰かに言われたおれは必死でチューブの先端についているボタンを探したが見当たらない。誰かがボタンをおれの手に握らせてくれた。
「痛くなったらこのボタンを押すのです。そうすれば背中から麻酔が入りますからね」
おれは必死にボタンを押した。親指に力が入らなかった。ようやくカチッという音がしたが、麻酔がモンダイの左膝に到達しているのか、まったく実感できずにいた。
「効いてないよー」
おれは再びボタンを押したが、今度はカチッという音がしなかった。どうやらボタンの連打はできない仕組みになっているらしい。「麻酔の入れ過ぎ注意システム」が作動しているのだ。ちくしょう。痛くて目を閉じると両目尻から涙が頬を伝わった。
どうしてこんなに痛い思いをするシリツをしてしまったのだろう。おれはあり得ないほどの痛みのなかで激しく後悔していた。シリツなどせずに、鎮痛剤を飲み続けて、痛みと騙し騙し付き合う人生のほうがまだマシだったのではないのか。
おれは入院日の一月三十一日に麻酔科のセンセと面談したのだが、そこで麻酔医がフト漏らした言葉を思い出していた。
「この手術は、術後の痛みにかけてはトップクラスですからねぇ」
そうなのか、とそのときは深く考えなかったが、一方で執刀医の
「左膝の壊死した骨を削り、その骨の代わりにプレートを嵌めて、また縫合します。傷口の長さは縦に十五センチほど」
という説明も思い出していた。聞いたときは「ふーん、そうか」というだけで、何の疑問も持たなかったが、あのときにもっと想像力を働かせておけばよかったのだ。たとえばこのような想像力。
「骨付きのフライドチキンを骨が見えるようになるまで食べるには」
おれの頭の中はそのヴィジュアルでいっぱいになり、また痛みが増した。
骨に到達するには表皮、真皮を切り、さらに内側の筋肉、筋膜を切って骨まで進み、壊死部分を見つけ、そこの骨を削って代わりのプレートをつけるというわけだ。痛いに決まっている。迂闊だった。
結局、シリツ当日は午後一時から次の日の朝まで一睡もできず、キリキリと痛む左膝におれはあっさりと白旗を上げてしまった。真夜中にナースが鎮痛剤の点滴を二回交換しに来てくれたが、喋るのも辛かったおれは脂汗をかきながら寝たフリをしていた。このようなバクハツ的な痛みは、オノレの精神状態まで大きく変えてしまうことがよおくわかった。ナースに「ありがとう」のひと言も言えない自分に戸惑いながら、
「ちくしょう、もうどうだっていいやあ」
と、一晩じゅう心のなかでホザいていた。
シリツ翌日の朝、いきなり尿カテーテルと酸素マスク、心電図のケーブルが外された。もっともこれらは、のちにナースへ
「あのときは何を外したの?」
と質問してわかったことで、そのときは
「おいおい、激痛は治らないのに、一気に何本かのスパゲティが外れたな」
としか思えなかった。余裕ゼロだったのだ。
そしてナースが二人掛かりでおれをベッドから起こし、そばに置かれた車椅子にそおーっと腰掛けさせた。曲げた左膝は当然悲鳴を上げた。だが、この「車椅子に座らせる」というのがリハビリの最初の一歩だということが次第にわかってきた。
「痛いでしょう。でもね、この車椅子でトイレまで行って、トイレの便座に移動して用を足してまたベッドまで戻ってくるのが大切なんです」
ナースの言葉におれは反論した。
「でも、こんなに痛いのにもう動かさなければならないのですか?」
「そうです。問題ナシということで尿カテーテルも取ったので、これからは用を足したくなったら、ナースコールで私たちを呼んでください。車椅子にご移動するのをお手伝いして、トイレでは腰掛けるのをサポートしますので」
どうやらこのシリツは、問題がなければ術後すぐに膝周りを積極的に動かし、次のステップであるリハビリテーションに繋げていくようだ。術後なるべく早くに、どれだけ膝周りの筋力を回復させられるかがポイントになってくるらしい。だが、おれは思った。
「ションベンがしたくなるごとに若いナースを呼んで。トイレまでお世話してもらうのは男の股間、いや、沽券に関わるではないか」
三回目の尿意が来たとき、おれは病室に持ち込んだ杖を持って、ベッドから立ち上がってみた。膝がカクンとなりそうになったが、なんとか持ちこたえ、杖をついて自室のトイレまで行くことができた。便座に腰掛けるのも激痛を伴ったがイケた。立ち上がるときは左膝にビリビリと高圧電流が流れたが、そのまま杖でベッドまで戻ることができた。
これはとてもいいリハビリなのではないか。
そう思ったおれはそれ以降、ナースを呼ばずに杖をついて一人で何回もトイレとベッドを往復した。そのたびに膝が動くので激痛が走り、ベッドに戻ると汗びっしょりになったが、メスで切られた筋膜や筋肉の線を早く回復させるにはとにかく動かして筋力をつけて、しかもその可動域を広くさせてやることが大切なのだ。
この「車椅子すっ飛ばし・自力歩行でトイレへ」作戦は、しばらくしてナースに見つかり、怒られてしまったが、彼女は同時に驚いていた。
「もうご自分でトイレに行ったのですか? 昨日手術したばかりなのに」
ツマが見舞いに来てくれた。
「痛い?」
「痛いよう。昨日は一睡もできなかった。今夜もたぶん同じだよう」
「明日になったら痛くなくなっているよ」
「どうしてそんなことがわかるんだよう」
「わかるんだよ。大丈夫だよ」
ツマはそう言うと帰っていった。
そしてシリツ翌日は、いくつか投入された追加の痛み止めの点滴と、おれがボタンを押す硬膜外麻酔の甲斐なく、激痛はちっとも緩和されずに終わっていった。眠れたのは一時間ほどだった。
潮目が変わったのは術後二日後だった。ぐるぐる巻きにしていた左膝の包帯が取れて傷口を見ることができた。見た瞬間に卒倒しそうになった。もうグラビア・タレントは引退だな、と思った。それはそれは物々しい傷跡だったのだ。傷の長さも十五センチ以上あるような気がする。膝上から膝下にかけて縦にまっすぐ二十五センチ以上はあるだろう。だが、包帯を外したら、それまでこもっていた激しい痛みが外へ流れていったような気がした。
少しだけど、昨日より痛みが和らいでいるような気がする。
ベッドの上から窓の外を見る余裕が出てきた。落ち着きのないおれはまたナースに内緒で一人で窓のところまで杖で歩き、窓を開けてみた。十五センチほどしか開かなかった。窓越しに見える下界は、ヒトビトが行き交い、横断歩道を小走りに渡るヒトの姿も小さく見えた。
ああ、外に出たい。そのことをおれは痛切に思った。病室は空調が効いているが、外は寒いんだろうなあ。しかし、いまのおれはその寒さをしっかりと感じたかった。外に出たい。
「シノハラさん、また自分で移動してる!」
部屋に入ってきたナースに見つかってまた怒られた。
仕方がないのでベッドへ戻り、TVをつけてみた。手術後初めてだ。つまらないのですぐに消す。どうやらTV局のカタガタはいまだに「お茶の間」というとっくの昔に消滅した幻想空間に向けて番組を作っているのだな、と思った。
術後三日目になると、膝の激痛は鈍痛に変わりつつあることが自覚できるようになった。もうここからはリハビリ勝負らしい。おれはリハビリテーション科の若い担当先生に訊いた。おれからすると孫娘のような先生だった。
「頑張って膝の曲げ伸ばしをすると、傷口がパカッと開いて血しぶきが飛ぶ、なんてことはありませんか」
「ありえません。そんなことがあったらニュースになってしまいます」
先生は笑いながらそう答えてくれた。
よおし、それならば痛みに耐えてリハビリに励もう、とおれは決心した。
退院後の生活の質もこのリハビリにかかってくるのだし、なによりあの術後二日間の激痛にきっちりとオトシマエをつけてやらなければならない。あの痛さに比べたら、リハビリの痛さなんてたかが知れている。
医療ドラマはシリツまでの患者、医師、ナースの物語にほとんどの尺を費やすが、術後の痛みを描いた作品はあまり見かけない。そうだよなあ、地味だもんなあ。でも、ここから退院までのおよそ十日間が、おれにとっては煉獄の日々だった。
リハビリの痛みはソーゼツだった。先生は若くて可愛らしい顔なのに、かなりサディスティックだった。おれは昔からマゾヒスティックだったので相性が良かったのかもしれない。二倍に腫れ上がった膝をいろんな運動でイジメ抜いた。
おれは終始歯を食いしばり、全身から脂汗が流れた。リハビリテーション・ルームから自室に戻っても、その日に行なった運動の反復練習をした。膝はますます腫れ上がった。凍ったジェルが入った袋でアイシングしても、すぐジェルがぬるくなってしまった。何度ナースに交換を頼んだかわからない。
ベッドの上ですることといえば、リハビリの自主トレと三度のめしだけだった。
TVをつけても衆議院総選挙のことばかりだ。もうおれは誰がソーリ大臣になろうと、どの党がセーケンを取ろうと、何の期待感も持てなくなってしまった。
しばらくすると選挙のことなどなかったことにされて、ミラノ・コルティナ五輪のニュースでTV画面は埋め尽くされた。おれは日本がメダルを何個取ろうが取るまいがどうでもいいニンゲンである。ゆえにつまらない。おれはTVを消して自主トレに励んだ。
気がつくと杖を使わずに歩けるようになっていた。一歩踏み出すごとに痛みはあるものの、何とか十分間は歩行可能になった。階段はまだ二足一段で昇り降りしなければダメだったが、これは文字通り「進歩」ではないか。
リハビリの先生からは、
「私が今まで担当した患者さんのなかで、いちばん回復が早いです」
とまで言われたおれは鼻の下を伸ばして、ますます自主トレに励んだ。おれは褒めて伸びるタイプなのだ。
入院から十五日経過した二月十四日、おれは退院した。タクシーで自宅へ帰るとき、窓を全開にした。気持ちがよかったが、同乗してくれたツマに「寒い」と怒られた。
入院中は平均二時間ほどの睡眠だったのが、家のベッドだとノンストップで九時間眠ることができた。病室の空調は完璧に作動していて、寒くもなく暑くもなく、そういう意味では快適だったのだが、まったく空気が動いていなかったということに気づいた。家の自室は狭くて汚くてどうしようもない有様だが、空気は動いているのだ。これは生きているニンゲンにとって活力になるのだなあと思った。
膝の術後の痛みは大きく分けて四つに分類される。
⑴25センチほど縫った傷口のつれるような痛み。チクチク痛む。
⑵骨を削って人工骨を入れた箇所の痛み。ジンジン痛む。
⑶切断された筋膜などの痛み。ズキズキ痛む。
⑷リハビリによって虐められた筋肉痛。シクシク痛む。
おれはチクチク、ジンジン、ズキズキ、シクシクの波状攻撃を受けながら、退院後も毎日たゆまずリハビリ自主トレを続けている。今日は家の周りを1kmほど歩行訓練した。運動すると左膝がすぐ腫れ上がるので、アイシングも欠かせない。いろいろと厄介だ。シリツはしたけれど、いつになったらこの膝の痛みから解放されるのか。先は見えない。三月三日には退院後初めての外来が予定されている。そのときに執刀医と膝を交えて話をするしかない。ニーと笑える日は来るのだろうか。