別腸日記(13)祖父への旅/前編

新井卓

先月の『現代詩手帖』に祖父の家を探しにいく話を書いていて、記憶の片隅に埋もれていた韓国への旅の断片が甦ってきた。

平壌に生まれソウルに暮らした祖父は、一高から阪大の航空学科に進み、海軍技術将校として終戦までトラック諸島で従軍した。彼のソウルの生家が竜山地区に残されているという話を祖母から聞き、当時二十歳だったわたしは、あてどないバックパックの旅に小さな目的を見つけその家を探しに行くことにした。

大学の英語教師に「星の王子様」というありがたいニックネームを授かった私は──いつも光沢のあるロングコートに白いマフラー、ハリネズミのように立てた髪、そして何よりもほとんど留守で出席がぎりぎりなのが理由に違いなかった──そのままの格好で、祖父の形見のカメラ・PenFTと持てるだけのフィルムを詰め込み、夜行バスで新宿を出発した。早朝、下関に着き、フェリーの定刻にまだ間があったので街をぶらぶらと歩いた。初めて訪れる街並みには、見慣れないハングルが併記された看板が並びそれだけで、もう旅の感情がかきたてられるのだった。

係員に切符を渡し、タラップを昇ってフェリーに乗り込む。わたしの前にも後ろにも、大きな荷物を背負子に積み上げた女たちが列をなしており、なにやら殺気だった気配を帯びていた。立ち止まり振り返って、カメラを向ける──と、突然何人かうしろのあたりから、女性の烈しい罵声が飛んだ。何をいっているは分からなかったが尋常ではない怒り方で、ただ面食らった。船に乗り込むとたちまち、わたしは背負子軍団にとりかこまれた。何人かが鬼のような形相でカメラを指さし、どうやらフタをあけてフィルムを出せ、と言っているらしかった。

彼女たちはいわゆる「運び屋」で、人気のある日本家電を下関で買い、それに小さなキズをつけて中古品として関税をかいくぐって本国で売る、という商売をしているらしかった。それがそのような利益をもたらすのかわからなかったが、その様子から、それが厳しい生活の糧であることがうかがい知れた。密売すれすれの仕事を写真に撮られては、黙っていられないに違いない。

わたしは蚊の泣くような声ですみません、といって、言われるままにフィルムのフタを開けた。すると途端に女たちの顔がほこんで笑顔になり、肩を叩かれて、わたしは放免されたようだった。

すっかり怖じ気づいたわたしは、彼女たちが陣取る二等客室にも居づらく、寒風の吹く甲板に出てすっかり日が暮れてしまうまで、ぼんやりとして過ごした。フェリーの食堂でなにか韓国料理のようなものを食べたのを覚えている。そして、大量のビールとカップ酒を飲み、先ほどまでの喧噪が嘘のように、みなが寝静まった二等の大部屋で、眠れない夜を過ごした。

翌朝、いつの間にか寝過ごしてしまったのだろう、周囲の音とにおいで目を覚ました。まわりを見渡すと、運び屋の女たちが何人かずつ、グループをつくって円座を組んで、バーナーとコッヘルで朝食を作っているようだった。キムチの刺激的なにおい。空腹を覚えて思わず唾を飲み込むと、それを察したかのように、五十くらいの女性が手招きした。何かと思えば、雑炊とキムチの朝ごはんを、わたしにも分けてくれるという。カムサハムニダ!と、それしかしらない韓国語を叫ぶと、笑い声が起き、まただれかにバシンと肩を叩かれ、それからわらびのナムルとか、ニラキムチ、タラをほぐしたふりかけのようなもの、そんなものがどこからともなく運ばれてきて、ピンクのプラスチックの皿に山盛りになった。

それらがどんな味がしたか、もう思い出すことができない。でも、海を隔てた大陸の迫力とその鷹揚さに初めて触れた気がしたことを、はっきりと覚えている。祖父が育ったのは、そういう場所だったのだ。