別腸日記(4)悪魔の舌

新井卓

その男はガンダルヴァの家系で、サーランギー奏者なのだと名乗った。わたしが日本から忍ばせてきた安物のラムは、空になりつつあった。戸外は群青色に染まり、雨期に珍しい透きとおった空が薄暮時を告げていた。

目の前で愛おしそうに少しずつ酒をなめるその男は、わたしよりも一つか二つ上の二十歳くらいだったのだが、もう名前は忘れてしまった。何か難しい妊婦の病気で手術が必要、と男が言っていたその妻は、大きなお腹で乳飲み子を片手に抱え、暗がりで平然と鶏を調理していた。その身体の一体どこに異変があるのか、決して口をきかず食卓に同席しない女の横顔からは、伺い知ることはできない。

カトマンドゥのタメル地区で突然声をかけられ、およそ屈託のない笑顔にすっかり警戒心を砕かれて、男とはすでに2週間ほども行動を共にしていた。その間、時折「妻は母乳が出ない虚弱体質なので」と訴えられては、缶詰の粉ミルクやこまごまとした日用品を男に贈っていた。状況はうすうすと察知してはいたが、結局わたしは、男にすっかり魅了されていたのだ、と今は思う。

ネパールのサーランギーは、通常四弦からなる竹製の擦弦楽器である。あり合わせの針金やナイロンで作られた弦はおよそ粗末な代物だったが、男が弾き歌い始めると、とたんに耳の後ろが切なくなるような、瑞々しい音楽が四方の空間を支配してしまうのだった。

男はあれこれと無心はするが悪びれたところはなく、交わした約束は必ず守った。わたしたちはすぐに、手をつないで歩くようになり──この国では男同士でも親しい仲ならそうする──観光客が決して足を踏み入れない場所へ連れ立っていく仲になった。

ある日、彼の郷里という山奥に出かけていって、仲間にマダラ(両面太鼓)の手ほどきを受けた。「口で真似できないうちは太鼓は叩けない」と笑われながらも、演奏に加えてもらったのを覚えている。ろうそくの火を囲んで永遠に続くかと思われるセッションは、わたしの知らない、あるいは、これから決して知ることもない人間たちの世界の入り口の様に思え、わたしはいつまでもそこに留まっていたかった。

その夜、ガンダルヴァたちに言葉巧みに進められて、なけなしの金で、調弦方法も知らないサーランギーを買って街へ帰った。

食卓の鶏は、養鶏場に行きその場で捌いてもらった新鮮なものだった。スパイスで煮込んだ肉塊は、わたしの皿だけによそわれた。少しでも残しては、となるべくきれいに骨までしゃぶって皿の脇に置いた。すると男はそれを端からつまみ上げ、バリバリと噛み砕いて丹念に髄を啜るので、内心ぎょっとさせられ、また自分に染みついた無意識の贅沢さを教えられたようで居心地が悪かった。女は何も口にせず、時々こちらを無表情に見やりながら、赤ん坊に乳をやっている。

やがて甘ったるいラムを一瓶飲み干してしまった男は、よろよろと立ち上がり、宿まで送ろう、と言った。女はもう寝台に行ってしまったとかで、食事の礼もできずに、わたしたちはスラムを後にした。

あたりは闇に沈み、人通りのない郊外を野犬の群が駆け巡る時刻にさしかかっていた。

帰りの道すがら、男はまた金の無心を始めた。妻の手術には30万円ほど必要であり、それがなければ彼女は死んでしまうかもしれない、と数日前を同じことを繰りかえす。「こちらは学生バックパッカーでそんな金はどこにもない」といくら説明しても、男はなかなか引き下がらない。やがて、酔いが手伝ってか、現金がないならクレジットがあるだろう、それがだめなら本国から送金してもらえばよい、としつこく食い下がってきた。男の眼は充血して、いやな顔つきになっていた。ようやく大きな通りに出たので、人力車(リクシャー)を捕まえて無理矢理に男を押し込め、家に送り返した。不意に、それまで押し込めていた疑念が暗い感情となって沸き起こって来、宿に帰ってからも遅くまでベッドを転々とした。

カトマンドゥは、もう引き上げ時なのかもしれなかった。翌朝、わたしは逃げるようにバスに乗り湖の街ポカラへ出立した。それから一、二週間も経っただろうか、ふたたびカトマンドゥの安宿に戻ってくると、男は表でわたしを待ち構えていた。

男はあの無邪気な笑顔で「急にいなくなってどうしたんだ、誘拐でもされたかと心配したよ」と言い、親しげにわたしの肩を叩いた。わたしは男を無視して、宿の戸に手をかけた。「いったいどうしたんだ! 何で無視する」そう追いすがる彼に向かって、「お前は誰だ、お前なんか知るか!」咄嗟にそう叫んでから、自分の内にそれほどの憎悪が潜んでいたことに目のくらむような動揺を覚えながら、わたしは部屋へ逃げ帰った。

その夜、〈悪魔の舌〉という旅行客がたむろするパブに足を運んだ。その店は国産のククリ・ラムを使った、「ロングランド」アイスティーとかいう名前のカクテルを出していた。バックパッカーたちの間でガソリンが混ぜられている、と噂される得体の知れない飲み物で、それを吐くまで何杯も飲み干した。

わたしは怒っていたのだろうか?──とすればそれは、関係を台無しにしてしまった男の不実さについて、ではなく、結局のところ、与え/与えられる対等な供与関係をしてしか友情を信ずることのできない、わたし自身の冷たさに対して、だったのだろう。わたしが男を拒絶したその瞬間、彼の眼にありありと浮かんだ驚愕の色は、彼らからすれば豊かすぎる暮らしを享受する日本人に幾ばくかの金品を無心すること(カースト最下層のガンダルヴァたちは、何世代にもわたってそのように生きてきたのだろう)、そして、歳近いわたしたちの間に芽生えた友情らしきものとの間には、実のところ何の関わりもなかった、ということを端的に表していたのかも知れなかった。

その後、彼にはもう会うこともなかった。生まれて初めての異国への旅は、もう終わりに近づいていた。

ラムは、大航海時代ヨーロッパ列強によるカリブ海の植民地化とともに生み出されたという。今でも、ラムを口に含むたび、男の驚いて見開かれた眼と(もう顔を思い出すこともできない)、貧しく、それでいて輝かしく奔放なガンダルヴァたちの世界が記憶の奥でひらめき、かすかな痛みとなって、舌をひりつかせるのだ。