しもた屋之(184)

杉山洋一

国の決まりで、4月15日に決まってアパートのセントラルヒーティングが止まるのですが、今年は何故かその後2日ほど暖房が通っていて床も温かったのですが、それも切れた途端、急に冷え込んで、最高気温12度くらいで底冷えさえするようになりました。
その上ここ数日大雨続きで、ミラノ中の道路に泥水に覆われています。それでも雨が止む度、啄木鳥が戻ってきては、庭の樹を穿つ鈍いトレモロが断続的に響き、耳を癒してくれるのです。

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4月某日 三軒茶屋自宅
お手玉を落とす行為一つにしても、そこにあまり意味を考えず、淡々とただ落とすというのも、やってみると難しい。床に落ちたお手玉が音を発する前に、加速し落下する視覚的な運動も加わる。
発音に続いて余韻が残るのと反対の効果。テープやオープンリールを反転させて再生するあの感じ。単に拍手して貰おうと思っても、音楽家がやると音楽的になるけれど、寧ろそれは何故かと自問してみると、それまで「音」を包む不可視だった幕が、急に色を帯びて見えてくる。
今朝は、最近書いたヴァイオリンのチベットの主題による小品を林原さんが聴かせてくれる。林原さんはチベット語を勉強していて、チベット人の友達が演奏会に沢山来るとは聴いていたが、亡命チベット人だとは知らなかった。

4月某日 三軒茶屋自宅
安江さん演奏会、会場リハーサル。猿のように会場を徘徊しつつ、新作の動線を決めるのに2時間かかる。長いリハーサルの一日が終わり、ふと新聞を見ると、トランプ大統領シリア攻撃、とある。

4月某日 三軒茶屋自宅
安江さんの演奏会に出かける前に、会場近くのオムライス店で昼食を摂る。入口で、肉の入っていないオムライスはあるか妙齢に尋ねると、一度厨房に相談に行き、オムライスのご飯には初めから肉が混ぜてあるので、それを普通の白いご飯にしても構わなければ、と言うので、喜んで好意に甘える。席に着くと、先ほどの妙齢が戻ってきて、申し訳なさそうに肉の食べられない理由を教えて欲しいと言う。ベジタリアンなのかビガンか、さもなければアレルギーや宗教上の理由で問題があってはいけない、と言うので、いたく感心する。それらと関りはないので問題なく美味しいオムライスを頂いた。特に美味しく感じたのは、妙齢とコックの機転のお陰に違いない。

安江さん演奏会。悠治さんの曲は、会場で聴くと、原曲がより明確に聴こえてきた。一度安江さんのスタジオで聴かせて頂いた時の印象とも随分違った。安江さんから意見を求められたので、悠治さん風に演奏しなくても良いけれど、普通はルバートをフレーズ単位で崩すのを、悠治さんだったら8分音符の中を64分音符単位でグルーブをかけて、音を紡いでゆく感じか、と口から出まかせを言った。

増本先生の曲は、楽譜を初めて読んだ時に、こんな風に音が置ければいいと思ったが、その通りの響きがした。増本先生の曲は、音の背景に、晴れた空の、一昔前の日本の風景が見えるような気がする。騒音にまみれ、アスファルトで固められた今の日本が失った、もう少し鄙びた、空気の澄んだ街並みが見える。

「ツリーネーション」は、当時はこれ程楽観的な曲を書いていたのかと驚く。「放射能汚染が」「甲状腺がんが」「ミサイルが飛んできたら」「空母何某が」という記事が、毎朝の新聞に載るとも思ってもみなかった頃のことだ。ヨーロッパにはヨーロッパの大きな問題があるが、日本もすっかりきな臭い世相になってしまった。

「壁」は、前日にアメリカがシリアを爆撃したので、否が応でも黒いお手玉を落としては繰返し拍手する姿は、自分が想像していた以上に厭なものだった。本来は壁の向こうで手を叩くはずの音が、具体的な爆撃音のように聴こえてしまう。その度に、メタルシートが大きく撓み反射する。

ピアノ曲は、聴いていて当時の自分が羨ましくなる。自分の息子を見ていて、お前はいいね、羨ましいと嫉ましく思うのに少し似ている。それより加藤くんの音がとても温かく、心に沁みとおる。星谷君を知っていて弾いているに違いないと思い込んでいたが、直接は殆ど会ったことがなかったそうだ。

夜に両親に電話をすると、二人とも「壁」にとても圧倒されたらしく、とても興奮して感想を聴かせてくれる。それだけでも、書いて良かったと思う。演奏会として喜ばれたのなら、曲よりも寧ろ、聴き手は安江さんと加藤君の熱演に引きこまれたのだろう。自作を続いて聴くのは、どうも居心地が悪くて困った。

4月某日 三軒茶屋自宅
行きつけのトップ駅前店に行くためには、渋谷のスクランブル交差点か、井の頭線ホームに繋がる空中通路を通る。スクランブル交差点では、外国人の観光客が交差点を背景に記念撮影をしていて、空中通路からは、交差点を行き交う人いきれを眺める外国人観光客が窓際に並んで、口々にcool! amazing!と黄色い声をあげている。

交差点の前に立つと、巨大なスクリーンが3枚ほど目の前のビルに掲げられていて、それぞれに大音量で番組を流している。誰もが聴いているようで、聴いていない。見ているが理解していない。理解するために流す情報であれば、一つのスクリーンで、それぞれの情報を順番に流せば良いのだから、当初から伝えることが一義的な目的ではないのだろう。コンピュータの検索機能に頼るようになったので、たとえ生活全てを氾濫する情報で覆いつくされても構わないのかも知れない。

ルクレツィオを読んで痛感したのは、「何を知る」のは、それまで存在していた何かを失うということ。文明が進化する程に、事象を即物的、表面的、分析的に観察するようになり、常に懐疑的な視点を伴っていることに気づく。あの時代に於いて、ルクレツィオ自身が、限りなく、即物的、分析的、懐疑的だった。

4月某日 ミラノ某日
暫く家人が日本に戻っているので、息子と二人で朝食を摂る。最近の彼のお気に入りは、シナモンを交ぜたフレンチトーストもどきで、フレンチトーストと生焼きオムレツの中間のような代物。これにシチリア産の蜂蜜をたっぷり掛けて喰べる。
毎朝つけている、ABCのラジオニュースで、北朝鮮やらドナルド・トランプやらの名前が出ていたからか、フレンチトーストもどきを頬張る息子が、隣で呟いた。
「アメリカも北朝鮮に自由の女神像を贈ればいいのに。フランスがアメリカの独立と自由の象徴に、自由の女神像を贈ったように」。

4月某日 ミラノ自宅
先日演奏会の後悠治さんと話していて、「教わる」のは、教わった瞬間に既に誰かの真似ではないか、という話になる。そうかも知れない。それでも教えているのは、多分自分がまだ教えることで教わることが無数にあるからではないか。

大学卒業試験を控えるSがレッスンに来て、最近オーケストラの前に立っても、何の情熱も感じないと嘆く。どんな内容で音楽を作ってゆくだろうと黙って眺めていると、書いてある強弱やアーティキュレーションのことしか注文を付けない。楽譜にこう書いてあるのでこうやれと繰返すのは、レパートリーを振るのであれば奢りかも知れない、少なくとも自分はなるべく避けるよう努力している、と話す。予め書いてある記号の意味を咀嚼して、記号の向こうにある音楽の流れを理解した上で、自分が欲しい音像を出来るだけ明確に演奏者に示してゆくのは、容易ではない。フォルテと一言で言っても、大音量のイメージは無尽蔵にある。

Mはベートヴェンの第一交響曲の一楽章を、40歳代の男がよく晴れた昼下がり美しい山間の野原を歩いている姿に譬えた。提示部第2主題でナボコフ宜しく少女に出会い翻弄された挙句、最終的に男は振られて、傷心で展開部に入ると言う。

A曰く、同じ交響曲の最終楽章冒頭は、ナポレオン時代、戦闘から戻ってきた初老の「やる気のある」兵士たちが、足を引きずり困憊しながら街へ戻ってきた場面から始まる。アレグロに入るところで、彼らの後ろから走ってきた若い兵士たちが、老兵らをなぎ倒し、街めざして駈抜けてゆくシーンで、もちろん目指すは街で待っている娘達。展開部は、山あいに陽が暮れ始めて、遠くに見える街の明かりが点り始める場面。

娘たちは、玄関の扉を開けて待っているけれど、夜が訪れれば閉められてしまう。若い兵士たちは必死で街をめざして駈け抜ける。「やる気のある」老兵たちもそれなりに必死に追いかける。最後のファンファーレで、捨て置かれた老兵たちに反し、娘と抱擁を交わす若者たちの勝鬨の声。「やる気のある」老兵に差し掛かりつつある自分としては納得ゆかないが、こうして映像を頭に描いて指揮するだけで、音符を振っている詰まらなさが途端に消え去って、音が活き活きとしてくる不思議。常にフリッチャイがリハーサルを付けるモルダウのヴィデオが念頭にある。

M曰く、自信がなくてオーケストラに何を求めてよいか分からないと言う。とにかく、楽譜を振るのは止めるべきだと話す。譜面の紙は1ミリにも満たない薄ぺらいもので、その向こうに広がる無限の世界に足を踏み入れるための扉でしかない。彼がナボコフ風ベートーヴェン第一交響曲を演奏すると、確かに第2主題はコケティッシュな少女に聴こえたではないか。

作りたい料理を考えながら、指揮台に上がる。作りたい料理は予め考えておくけれど、作る素材は目の前のオーケストラの音の中から見つけ出して、その場で料理しなければならない。バジルがなければパセリで応用し、ニンニクがなければ、玉葱で下味を付け、アクセントが足りなければ別の香辛料をどこかから探してくればよいではないか。出来た料理をオーケストラに見せても、美味しい料理などは作れない。

水泳の例をあげる。泳ぐためにどの角度で手で水を切ればよいか計算式を覚えても、泳げるようにはならない。そればかりか、身体が固くなれば、沈んで溺れるだけだろう。泳ぐ喜びを何よりもまず味わいながら、毎回喜びを覚えつつ、この喜びはどこからやってくるのか分析するのは悪くない。

オーケストラと一緒にいられる時間への喜びはないのか、あれ程オーケストラを指揮してみたいと言っていたじゃないか。時間は戻らない。オーケストラと触れ合える時間がどれだけ貴重なことか。同じ曲を何度やっても永遠に同じ演奏には巡り合えない。

子供が出来て、時間が経つのがどれだけ早いか、そしてその一瞬一瞬がどれだけ掛け替えないものか実感するようになった。それに気が付くときは、深いノスタルジーで過去を振り返る時だけだ。それは君も子供が出来て実感できるのではないかと尋ねると、大きく頷いた。

君は自然が好きだと言うが、自然だってもう二度と同じ自然に巡り合うことはない。四季は確かに巡るけれど二度と同じ日が戻って来ない。だったら今日、この時間を精一杯生きなかったら、音楽を精一杯慈しまなければ、後で後悔するに違いない。
そう話してふと彼を見ると、Mは眼鏡を外して目を拭っていた。

4月某日 ミラノ自宅
ここ暫く、頭の中から音を一切なくしたい、と思っている。音がなければ、音が見えてくるに違いない。去年は、すみれさんのため「白鷺鷥」を理想の音で書いて、今年は反対に「壁」を生理的に厭な音楽として書いた。実際「壁」は、触感として凄く厭なものだった。

元来、作品は作曲家の精神状態など表さないと言張って来たが、この歳になって、その信念が揺るぎつつあるのを自覚している。

昨秋パルマのフェステイヴァルで、アルフォンソとセレーネが演奏した「天の火」のヴィデオが送られて来た。素晴らしい演奏なのだが、余りに胸が締め付けられるようで、聴き続けるのが辛かった。正直にそうアルフォンソに伝えると、「あの時は二人で演奏しながら、何かが降りて来た気がしたんだ」、と少し困惑した声で答えた。
「きっとフランコが訪ねて来たのだろう」。
「天の火」は、癌で逝った我々の友人、フランコのために書いたものだった。今、こうして書いている目の前に、フランコの形見分けで頂いた古い日本のお盆が飾ってある。

古代、音は神と繋がるための手段で、我々の把握をはるかに超越した存在だった。多分それは、音そのものへの畏怖ではなく、音が響くわたる空間に、まるで別の次元へ広がる裂け目が開くのを鋭敏に感じていたのかも知れない。

4月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めた20数年前は、ミラノの喫茶店で音楽はかかっていなかった。今では音のない喫茶店を探す方が余程むつかしくなった。譜読みをのんびりしようと思っても、あまり煩い音の洪水のなかで出来るものとそうでないものがある。
ガレリアの出版社に楽譜を取りに出かける前、少し時間があったので、ドゥオーモ地下の喫茶店でハイドン「悲しみ」の楽譜を開く。場末ではあるが、この界隈で音楽を流さない数少ない喫茶店の一つで、昼食なども美味で気に入っている。1楽章から楽譜を眺めてゆき、2楽章で言葉を失い、まるで自分の意識が混濁する。楽譜の上で、余りにも美しい音が、淡々と紡がれてゆく。朦朧としながら、強く石畳を叩く雨の音のなかで、コルソ通りのツェルボーニ社まで歩く。約束の楽譜を受け取ったのだが、夢見心地で出口をそのまま通り過ぎ、声をかけられて我に返った。

音が美しいから心を打たれているのではない。音符の向こう側に流れ続ける、空気のようなもの。その小さな割れ目からじんわりと滲みだす、感情の透明な液体。それは涙なのか、汗なのかわからないが、温かいのはわかる。

昔、政府の奨学金が突然打切られてから数年は、本当に貧乏だった。しばしば銀行から通知を受取るたび、開けるのが怖かった。それは決まって、口座の残高がマイナスになったので、何某か預けないと口座を閉める、という脅迫じみた催促状だった。色々音楽とは無関係の仕事をしながら、ここで何をやっているのかと情けなくて仕方がなかった。スコアなど買うお金は到底なかったから、なけなしの日銭で買ったポケットスコアはそれこそ宝物で、いつも持ち歩いては眺めた。
観光客がタックスフリーで買い物をしている傍らで、シューマンの楽譜を開いて目を皿のようにして読んでいる通訳兼ガイドなど、とても感じが悪かったに違いない。半年で解雇され、益々生活は苦しくなった。苦しいというより、もう暮らしてゆくのは不可能ではないかと思った。

ただ一つ。そうしながら、子供のころ事故に遭ってから身体の中を巡っていた、言葉にできない厭な液体が、少しずつ蒸発してゆく気がして妙に気持ち良かった。邪気を払うというのか、流行り言葉でデトックスというのか。自分のうちで自らが最も嫌っている何かが、どんどん蒸発し、流れ出してゆく気がした。すると身体の芯で、子供のころからずっと雁字搦めに封印されていた何かが少しずつ見えて来た。それは伽藍洞の、透明な筒のようなもので、それを感じるだけで、不思議なことに自分が生きていられることに言葉もなく感動した。

落ちるところまで落ちて、溶けるものは溶けきって、何か身体の中で、子供のころからずっと見たいと思っていて、すっかり見えなくなっていたものに、再会した喜びだった。

(4月30日 ミラノにて)