※前回、11月号からの続きです
2024年4月13日土曜日、パレスチナ会議(承前)当日。直前に公開された会場を調べると、家から十分ほどの近所だった。
市民農園の角を曲がり、封鎖された大通りにずらりと並ぶ警察車両を横目に自転車を走らせる。ジャケットからはみ出たクーフィーヤがひらひらと空中を泳ぎ、自分の、自分の身体のか細さ頼りなさをなかば笑いながら、小銃と防弾チョッキで身を固めた警官たちの視線を通り抜けていく。
会場ではすでに大勢の来場者が通りにひしめき、改札を待っていた。プレス向けの青色の紙の輪っかを手首に巻いてもらい、予定から二時間も遅れてビルの非常口から通された。
思いのほか大きな会場は蒸し暑く、プレス関係者は後方に着席するよう案内された。まわりの人々に挨拶しながら腰を下ろすと、パレスチナの国旗を広げた女性たちが背後に陣取り、ここで大丈夫?と囁いた。聞けば、すぐ後ろに親イスラエルメディアが固まっているらしく、妨害が入るかもしれないので旗やスカーフで防戦するつもりなのだという。両隣の席の人たちと少し話しはじめたところだったので、いまさら移動するのも心細いので、べつに気にしませんよ、人の盾が一人増えたと思って、と答えた。
やがて大きな拍手とともにジャーナリストで文筆家、活動家のヘブ・ジャマル(Hebh Jamal)氏が登壇し、開会の演説がはじまった。続くプログラムはエコノミストで元ギリシャ財務大臣を務めたヤニス・バルファキス(Yanis Varoufakis)氏による基調講演だったが、彼はパレスチナ会議への参加に関連してドイツ当局が空港で入国を拒絶し、オンラインでスピーチを行うことになっていた。バルファキス氏がスクリーン越しに語りはじめた直後、フロアの電源が落ち、一瞬の静寂ののち、会場は騒然とした空気に包まれた。なぜなら、会場の前後の入口から何十人もの制服警官がなだれ込み、通路と舞台を完全に塞いでしまったからだ。司会の女性は困惑した表情で、状況を把握するまで落ち着いて席で待つように、と肉声で呼びかけた。会場のいたるところで、シュプレヒコールが上がっていた。警察よ、恥を知れ!と猛然と立ちはだかる女性たちがいた。
奇妙に冷静な自分があり、彫像のように不動を決め込んだ警官たちの顔を観察した。どの警官も男女ともに二十代前半だろうか、場違いなほどに若くみえる。この人たちはいま、何を思っているのだろうか。何も感じず、考えないよう、訓練されているのだろうか、と思い、そんなはずはない、と思いなおす。この奇妙な場所で、彼女・彼らはそれぞれにか細い身体を差し出し立っているのだ、通路を塞ぐ障害物、モノとして。そのことに、目のくらむような憤りを感じた(だれ/なにに対して?)。
どれくらいの時間こう着状態が続いたか──体感では一時間ほどに感じたが、本当はどうだったか。明らかに酸素が薄まりつつある会場で、全員が、何かを待っていた。沈黙を強い待つことを強いる時間は、それ自体がよく使い込まれ滑らかに回転する暴力の装置だったが、その効果が十分に行き届くのを待ってから、警官が二人がかりで、グレーの大きな拡声器を運んできた。拡声器から、姿の見えない誰かの声が流れてくる──この催しはベルリン当局により散会になった。指示に従い速やかに会場から退出するように。これらすべてが、何度もリハーサルを重ねた舞台のように、あまりにも滑らかに執り行われていったので、わたしたちは、少なくともわたしは、悪い夢を漂い目覚めるかのように、劇場の外に投げ出されていた。
わたしはみんなと同じように腹をたてていたが、へんに納得もしていた。これなんだ、ドイツというのは、この滑らかさなんだ、と。
自転車を漕ぎ走り抜ける市民農園では、そこかしこでバーベキューの煙が上がり、肉やソーセージの焼ける匂いが漂っていた。サッカーのワールドカップを目前に、きょう、なんとかというチームとなんとかというチームが争う予定で、大音量で流れるテレビの音声は国内リーグのこれまでのハイライトを振り返っていた。滑らかな昼下がり。滑らかなゾーン・オブ・インタレスト(関心領域)。
翌日、ミドル・イースト・アイ(イギリス拠点でムスリム世界や北アフリカなどを中心に報道を行うメディア)のソーシャル・メディアで、警察が介入した瞬間の様子がシェアされた。占拠された舞台から後方の親イスラエル報道陣へカメラがパンするその映像には、わたしの姿が写り込んでいた。ベージュのジャケットの少し丸まった背中に、驚いたような横顔。その様子を見て、わたしは急にそのアジア人の男が──もちろんそれはわたし自身なのだが──心配になった。あまりにも無防備で、場違いで、彼は一体ここで、なにをしているのか?
(つづく)