新・エリック・サティ作品集ができるまで(6)

服部玲治

どこまでも濃ゆい漆黒のカレーは仙人の胃袋に消え、やがて白くて簡素な音の連なりが奏でられた。「いちばんむずかしい」と悠治さんがいう「ノクチュルヌ」から始まり、「サラバンド」、「3つの歌曲」と続く。譜面をじっとみながら訥々と。テンポは縦横に揺らぎ、まるで、一見するとそこには見えないけもの道のような道なき道を、さぐりさぐり逍遥するような、そんな演奏だった。このプロジェクトを発想するきっかけは、2004年の「ゴールドベルク前奏曲」のアルバムであることは以前にも書いた。レコーディングがスタートして、いまの悠治さんの演奏に接し、今回のサティは、バッハの時以上に、さらに脱水して、さらに「いきつく先が遠くて見えない」ような、そんな印象を受けて心が動いた。

最初は1曲奏するたびにフィードバックを確認していた悠治さん、次第に聴かなくなっていった。しばしば悠治さんの調律を手がけられている水島さんからそっと耳打ちされる。「信頼したからかもしれませんよ」と。

21時まで予定していたレコーディングはするすると終わり、夕方には予定曲数を超えて収録することができ、1日目は終了。初めてのスタッフとのレコーディング、さぞかしお疲れのこと、早々にお別れの雰囲気になるかと思いきや、悠治さんからまたもや意外なひとことが飛び出した。「今日は夕飯食べて帰ると伝えちゃった」。

この日が悠治さんとの初めての酒宴となった。たまたま不動前の大衆酒場が空いていて、スタッフと調律の水島さんふくめ総勢7名。わたしは嬉しさあまって勢いよく杯を重ねていたが、悠治さんも焼酎のボトルをオーダーし、みるみるうちにロックであおっていて、それも無性に嬉しかった。明日のレコーディングのこともしばし忘れて、わたしは悠治さんにここぞとばかりに、以前いったん棚上げになった次回アルバムの構想を、焼酎片手に口角泡を飛ばしてお話ししたのを今もおぼろげに覚えている。新たにジェフスキの「不屈の民変奏曲」やケージの「ソナタとインターリュード」の再録音を持ちかけたかもしれない。悠治さんはいずれも笑いながら、肯定とも否定ともつかぬかわしをされていたように思う。

翌朝、レコーディング2日目。少しお酒が残っていた悠治さんだったが、「グノシェンヌ」「ジムノペディ」「ジュトゥヴ」と実に順調にレコーディングは進行。夕方にはすべての予定楽曲がレコーディングを終えた。

3日間予定していたレコーディングは2日のみで終了。昨日の痛飲を反省し、躊躇していた悠治さんを半ば強引に誘い、この日も五反田の焼き鳥屋へと繰り出したのであった。