悠治さんの身体から解き放たれた音楽をたずさえて、今度はわれわれが外側のプロダクトを作り上げていかなければならない。アートワークのデザイナーとライナーノーツの執筆者は、あえてこれまでクラシックの世界にあまりかかわりがなかった人を選定。デザインを手がけたのは、かつて星野源さんが展開していたバンドSAKEROCKのジャケットなどを担当していた大原大次郎さん。そして、ライナーは、人間行動学を専門とする細馬宏通さん。お二人ともに、悠治さんの作品に携わることを心から喜び、熱のこもったアプローチを果たしてくれた。
プロモーションのための取材や、インストアイベント、プロモーションビデオの作成など、レコード会社がリリースの際に執り行う定食的なあれこれ。当初、悠治さんはどこまでやってくれるものなのか、いささか心配したが、蓋を開けてみれば、とても協力的にこなしてくださった。
リリース後、嬉しい反響が多々あった。クラシックのいくつものタイトルのリリースにかかわってきたが、悠治さんのサティの反響はそのいずれとも異なり、受け身ではない、なにか聞き手の態度表明のような意志を感じるものが多かった。
わたしの通っている、新宿駅の中にある小さな、しかし独特の異彩を放つカフェ「BERG」(店名はあの作曲家からとっている)。リリースからほどなくしてビールを飲みに赴くと、店内で悠治さんのジムノペディが流れてきたときは、いくつもの新聞や雑誌のレビューで取り上げてもらうよりも無上の、なにか腹の底からうれしさがこみ上げてくるような思いがしたものだった。
その後、悠治さんと会うたびに、第2弾のリリースの無心を、手を替え品を替え、お話ししてきた(主に酒席で)。が、そのたびに、いつも苦笑ともなんともつかない表情を浮かべながら、明言を避けるようにすり抜けていき、今なお実現に至っていない。
一度だけ、真に迫ったやりとりがあった(と、わたしは勝手に思っている)。あれはリリースから2年ほどたったある日。三軒茶屋の悠治さんの行きつけの居酒屋さんで、ご一緒する機会を得た。またもや、しつこいと思いながらも、次のレコーディングの話を向けたとき、悠治さんがとつとつと話を始めた。いわく、今年はクセナキスの難曲を2回も演奏する機会がひかえているが、肉体のおとろえを自覚していて、思うように弾けるかどうかがわからないという。レコードを録音するのは、ある意味完成したものを作る営みだが、それと今の状態は噛み合わないと。
僕はドキュメントとして録りたいのです、と伝えた。
こんど誘われて1枚にまとめた再録音では、貧しいものの音楽、小さなもののつつましさ、ひそやかさ、その息づかいや、鍵盤に触れるその時に生まれる発見から次の一歩が決まるような、どことなく危うい曲り道を辿る、音から次の音へのためらいがちな足どりの、未完の作曲家サティにふさわしい進行中の記録にとどめておきたい気もあった。
『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』ライナーノーツ所収
「サティの再録音に」より 高橋悠治
ドキュメントと言ったとき、この“進行中の記録”という一文が念頭にあった。おとろえという制約があるからこそ、「これしかできない」ものの中から生まれるものが録りたい。
加えて、悠治さんは、どこか白い結晶のような演奏になっていってる気がします、とも言うと笑われた。白い結晶と口に出た時、わたしの頭の中には、サティと交流のあった彫刻家ブランクーシの「接吻」という作品と、サティ最晩年の「ソクラテス」の白い音楽を思い浮かべていた。いろんなものを削ぎ落し、純化し、でもその向こうに隠し切れずにじみ出てくる歌と情感。今回のサティの録音にもそれは横溢していたように思う。
わたしがしつこく録音、録音、と言ってくることについては、「提案するのは自由だから、悪いこととは思ってない」とはっきり。これはなによりの収穫だった。
『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』はいまもなお多くの人に聴かれ続けているのは、昨今CDを駆逐して主流となりつつあるデジタル配信において、DENONレーベルの上位にずっとこの作品集がランクインしていることからもわかる。
リリースから4年。このプロジェクトは立ち消えてないと考えており、むしろ、悠治さんとまたご一緒したい気持ちは高まっている。
「誘われて」
と悠治さんのライナーノーツにあった。まだみぬ2枚目のアルバムのために、誘い続けようと思う。まずは、三軒茶屋の居酒屋さんに、いきませんか、悠治さん。
(了) ※今後動きがあれば不定期に継続します