ベルヴィル日記(4)

福島亮

 今朝、寝起きにスマートフォンの室温表示を見ると4℃だった。板張の床の冷たさを思うと、なかなか布団から出られない。窓の外はまだ暗い。それもそのはずで、冬は朝の8時くらいまで暗いし、くわえてここ最近曇りが続いている。空は、じくじく湿り、重たい。先日27日、名古屋外国語大学ワールドリベラルアーツセンター主催で、野崎歓氏の講演があり、ボードレールの「秋の歌」へと話が及んだ時、パリの冬の空がいかに暗いか、という話になった。やはり布団にくるまりながら——時差があるから、朝早かったのである——オンライン配信を視聴していた私は、そのお話に深く共感せずにはいられなかった。とはいえ、もう秋はとっくに終わり、あとは冬の深度が増すばかりだ。なにせこれからもっと寒くなってゆくのだから。

 冬の影は、初秋の頃嬉しそうに買い求めていた根菜類にも及ぶ。蕪も人参も葉付きのものはすっかり減って、どこかの倉庫で保存されていたと思われる根の部分だけが市場に並ぶ。まれに葉付きの人参があっても、その葉は和毛のようで、なんだか弱々しい。かわりに、蜜柑や柿は豊富に並んでいる。それはそれで美味しいのだけれども、もりもり茂る葉の方が私は好きなのだ。はやく暖かい季節になってほしいものだ。なにか手頃な冬の愉しみでも見つかればよいのだけれども……。

 そんなふうに思っていたところに一つの小包が届いた。歌人の川野里子さんがご著書を贈ってくださったのだ。『幻想の重量——葛原妙子の戦後短歌』(新装版、書肆侃侃房、2021年)と『葛原妙子——見るために閉ざす目』(笠間書院、2019年)である。葛原妙子は1907(明治40)年に生まれた。葛原の名前を、私は川野さんから教えていただくまでまったく知らなかった。だが、頂いた書物を読み進めていくうちに、葛原のものと知らずに記憶していた歌があることに気がついた。「晚夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて」という歌だ。いつだろう……屹立するどことなく静謐な酢の姿が脳裏に浮かぶ。思い返してみると、それはもうずいぶん前のことなのだが、永田和宏『現代秀歌』(岩波新書、2014年)のなかでこの歌が紹介されていたのである。そこで改めて『現代秀歌』を読み返してみたところ、なんと川野さんの歌も紹介されているではないか。知らずしらずのうちに、私はすでに川野さんとお会いしていたのだ。本のなかで。

 この歌と何年かぶりに再会する直前、私はもうひとつ別の、屹立する液体のイメージに出会っている。それは、つい先日刊行されたばかりの吉増剛造『詩とは何か』(講談社現代新書、2021年)のなかで紹介される田村隆一のエピソードである。それによると田村はある日武蔵野でケヤキを見ながら、「あの木、あれは武蔵野の水が立ってるんだぜ」と吉増に言ったという。このエピソードと葛原の歌とのあいだには、おそらくなんの因果関係もない。だが私としては、武蔵野の水が壜のなかの酢を呼び寄せたのだと勝手に思い込んでいる。そしてその酢は、かつて読んだ永田の書物へと私を立ち返らせ、そこで思いがけずして川野さんとも再会することになったのだ、と。

 冬の寒さと食卓の寂しさになんだか拗ねていたのだが、幾重にも繰り返される再会と想起があれば、今年の冬も乗り越えられるだろう。では、よい年末を。