これまでPDFで読めなかった『水牛通信』が公開されます

福島亮

『水牛通信』PDF版のうち、これまでPDF化されていなかった号が公開されます。今回初めてPDF版で公開される号、および落丁があったため差し替えたものは次の通りです。

・ファイル差し替え
Vol. 2 : No. 12
・PDF版初公開
Vol. 4 : No. 9, No. 10, No. 11
Vol. 5 : No. 4
Vol. 6 : No. 3, No. 7, No. 8, No. 9, No. 11, No. 12

 少しだけ、今回のPDF公開拡充の経緯を説明します。『水牛通信』のPDF版を2019年に公開してから、多くの方がファイルをダウンロードして読んでくださっているようです。時々、PDF版を読んだ方から感想をいただくことがあり、その時は、とても嬉しい気持ちになります。『水牛通信』という幻の通信に10代半ばから憧れてきた私にとって、このPDF公開にごくわずかであれ携われたことは、本当に幸せで、10代の頃の自分に、「今の自分はこんなことをしているぞ」と少しだけ誇ってみたい気持ちになります。「幻の」と書きましたが、それは誇張ではなく、多くのミニコミがそうであるように、『水牛通信』もまた、ある時、ある場所でひとびとの手に受け渡されたのち、印刷された冊子の多くが消えていきました。ミニコミの収集、保管、公開が直面するさまざまな問題については、道場親信氏による丸山尚氏へのインタビュー「[証言と資料]日本ミニコミセンターから住民図書館まで——丸山尚氏に聞くミニコミ・ジャーナリズムの同時代史1961−2001」に詳しく述べられています(PDFは以下から入手可:https://wako.repo.nii.ac.jp/record/1969/files/2013-175-242.pdf)。『水牛通信』は私にとって、文字通り「幻」の存在でした。

『水牛通信』を読んでみたい、という思いを抑えられなくなった私は、勇気を出して「水牛」のサイト上で公開されているアドレスにメールを送ってみました。2018年7月31日のことでした。同年9月4日に私はフランスに渡っているので、ファーストコンタクトは渡航の一ヶ月前のことでした。八巻さんが保管されていた『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』が私のもとに届いたのが8月17日。そのPDF化が完了したのが24日です。その後、1年ほどかけてデータの整理・共有や、公開のためのサイトの準備を、八巻さんと野口英司さんがしてくれました。PDF版の公開に先立って、2019年11月の「水牛のように」に「『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』がまもなく公開されます」という文章を私も寄せているので、もしもよければご覧ください。

 このように、公開のための準備から数えると現時点で5年経つわけですが、この間、私にとってずっと悩みの種だったある問題がありました。それは、保管されていなかった号や、保管されていても頁に抜けがある号が存在していたことです。この点について、2019年11月の私の文章には次のように書いてあります。

もっとも、まだすべての資料がPDF化できたわけではありません。1982年第4巻9号、同10号、同11号、1983年第5巻4号、1984年第6巻3号、同7号、同8号、同9号、同11号、同12号は立教大学の共生社会研究センターや法政大学大原社会問題研究所にあることはわかったのですが、それでも見つからないものや、様々な理由から電子化が難しいものもあります。

 ここで言及されていない、1980年第2巻12号は、当初保管されていた紙の冊子に落丁があり、読めない頁があったので、今回ファイルを新しく作成しました。最後の行の「様々な理由から」というのは、具体的には、研究機関でアーカイヴされているものをPDF化して公開した場合、アーカイヴに対して使用料金を支払わなくてはいけない、という問題のことを指しています。もっとも、すべての機関が使用料金を求めてきたわけではありません。また、確かに、保管をしているのだから、その保管料金がかかる、というのはロジックとしては理解できますし、保管の努力に対しては、きちんとした対価が支払われるべきです。それはアーカイヴの持続のためにも必要なことです。しかし、『水牛通信』を水牛のサイト上で無料で公開するために第三者に使用料金を支払わなくてはならないということに、私はどうしても違和感を覚えました。言葉の共有が権利や義務の問題にすり替えられてしまうような気がしたのです。日本のどこか、世界のどこかでひっそりと再び開かれることを待っている『水牛通信』の出現を待とう。そう思いました。使用料金以外にも、より物理的な困難もありました。アーカイヴ化された冊子は、保管のしやすさのために製本されている場合が多く、『水牛通信』のような余白の少ない冊子は、私の技術では満足のゆくPDF化ができない、という問題もありました。いずれにしても、欠落号や不完全な号の存在が悩みの種であることは変わらず、実際、公開された資料における頁の抜けを指摘する声や、PDF化されていない資料の公開を待ち望む声を受け取るたびに、申し訳ない気持ちになっていたのでした。

 この5年間、何人かのひとに『水牛通信』を持っていないか尋ねたり、古書店やミニコミ取扱店をまわって探し続けてきました。引っ越しの際に誤って失ってしまった、という辛い話もききました。今回、ようやく古本屋で『水牛通信』の欠落号、および頁抜けのない冊子を見つけ、手に入れることができました。それらをPDFにして、皆さんにお届けします。いつでも、どこでも、自由に、好きなだけ『水牛通信』をダウンロードし、読むことができます。私としても、これを機に、2年ほど中断している「水牛通信を読む」の方を再開しようと準備しています。

 『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』については、これでひとまず全号をPDFで読むことができるようになりました。しかし、これで終わりではありません。今、私がもっとも必要を感じているのは、音源の収集と公開です。もしもこの文章を読んでくださった方のなかで、水牛楽団のカセットテープやその海賊版、あるいは演奏会の際の録音などをお持ちの方がいらっしゃいましたら、どうかご連絡ください。