ベルヴィル日記(10)

福島亮

 第一次安倍内閣が2006年9月26日に発足し、一年たらずで終了したとき、私は中学生だった。2009年の民主党への政権交代のときは高校生、そして第二次安倍内閣が2012年12月26日に発足したときは大学生だった。時系列的にみると、私の人生の少なからぬ部分が安倍晋三と共にあったわけだ。だからなのか、彼が亡くなって、ぽかんと穴が空いたような気がした。悲しいというのではない。私の実人生において、彼と自民党の主張が具体的に大きな障壁であることは間違いないからである。むしろ、どこかで障壁が崩れるかもしれないという期待の甘さを思い知らされたような気がしてならないのが穴の原因だ。

 ぽかんと空いた穴の奥にあるのは、安倍晋三は「安倍晋三的なもの」に殺された、という思いであり、その思いを私は事件以降拭うことができずにいる。「安倍晋三的なもの」とはなにか、といえば、敵と味方の線引きを政治利用し、その線のうちで、本来問われるべき責任のありかを空虚化するという態度、そして傲慢さである。必然的に言葉もまた空虚化し、常に「立場」だとか、「〜としては」といった限定による保険つきの言葉でしかものを語れなくなる。私がときどき怖くなるのは、そのような「安倍晋三的なもの」を自分のなかに探りあててしまうときだ。たとえば、文章や話をするなかで「保険」をかけてしまうとき、私は内心それを「安倍晋三的な」書き方だとか、「自民党的な」語法だと思ってきた。それはある種の競争社会が構造的に要求するものであり、仕方ないものなのかもしれないが、そもそもこの仕方ないという心情が「安倍晋三的なもの」の養分なのではないか。養分がある以上、「安倍晋三的なもの」は生き残り続けるはずだ。安倍晋三本人を食い破ってしまった「安倍晋三的なもの」は何一つダメージを受けておらず、ますます強固に地上を徘徊しているような不気味さがある。

 空虚といえば、高校時代の世界史の教師がよく言っていたことのひとつに、政治家が形容詞を用いたら用心しろ、という言葉があった。形容詞というのは中身がないから、というのがその理由だった。「美しい」という形容詞がその教師の念頭にあったことは間違いない。実際その通りで、この「美しい」という形容詞には、誰にとって美しいのか、何をもって美しいといえるのか、といった具体性が一切ない。つまるところ、私が中学から大学まで過ごした時間の大部分は、そのような空虚に順応する時間の経過だったのかと思うと、ぽかんと空いた穴はますますその空虚さを増していく。

 この空虚さをおぞましいと感じる感性が、時に摩耗しそうになるのをどうにか堪えたいと思っている。そう思いながら、報道を横目で見ていると、「国葬儀」なるものをコストパフォーマンスという観点から擁護する意見があると知って愕然とした。それは二重の意味でおかしい。第一に、葬儀はあくまで弔いのためにあるべきで、そこにコストパフォーマンスなどという言葉をあてがうのはおかしいはずだ。私は安倍晋三の政治思想にはまったく共感できないが、一人の人間に対する弔いをコストという観点から見ることには吐き気がする。弔い、という行為は、そもそも政治的なものである。であればこそ、兄の亡骸に砂をかけたアンティゴネーは獄死することになるのだが、その政治性すらも引き裂いて、金勘定が顔を覗かせる、その味気なさがおぞましい。そして第二に、こちらの方が重要だが、コストという言葉にこれまでさんざん騙し/騙されてきた挙句、またもや白々しくコストなどと口にできる厚かましさがおかしいのである。東京五輪をみよ。なにが「コンパクト・オリンピック」だ。そもそも、いくらかかるのかまだよくわからない「国葬儀」について、コストを云々する時点で論理としては崩壊している。試算などというものがあっけなく無視され、湯水のごとく資金が投入された「平和の祭典」はそんなに昔の話ではない。

 つらつらとそんなことを思いつつ、窓の外に目を向けると、なんだか賑やかなベルヴィル通りの風景があり、この微かな喧騒は私の耳に快い。7月の中旬は熱波がひどく、いっときは40度近くになった。津島佑子の小説『あまりに野蛮な』(講談社、2008年)を走り読みしていると、その中に露店のスイカに主人公の一人であるミーチャがかぶりつく場面があった。私が住んでいる家にはクーラーがないから、暑くなると窓を開け放し、小説を真似て市場で買ったスイカにかぶりつく。ミーチャが憧れ、決して行くことのできなかったフランスにこうしているのがなんだか不思議だ。赤い果汁を介して、台湾とフランスが結ばれる。

 家の前にあるスーパーに台所洗剤を買いに行った時のことだ。こちらでは店員に対して挨拶をするのが普通のことだから、「こんにちは」とレジの女性に声をかけた。朝10時頃だったと思う。挨拶をしたのは常識だったからである。店員と客の立場がほぼ対等なフランスという国の流儀に倣って、客として当然の振る舞いとして「こんにちは」と言ったのだ。ところが彼女は、「こんばんはって言ってもらえるといいな。じつは昨日夜の仕事があって、頭の中で昼夜が逆転しているから」と言ってきた。日常の中に溶け込んでいた立場主義的な感性から何の気なしに挨拶をしていた私は少々面食らいながら、なんの仕事をしていたの、などと言葉を返し、二言三言会話をする。フランスのこういうところが、私は結構好きだ。あまり理想化するつもりはないが、頭の中が昼夜逆転しているから「こんばんは」の方が自分にはしっくりくる、という彼女は、きっと「安倍晋三的なもの」からもっとも遠い位置にいる。