ベルヴィル日記(6)

福島亮

 1年ほどかけて翻訳していたアラン・マバンク『アフリカ文学講義』(中村隆之・福島亮訳、みすず書房、2022年)が刊行された。「アフリカ文学」とタイトルにあるが、論じられているのはフランス語圏アフリカに関係する作家たちである。著書マバンクの人柄については、「ベルヴィル日記(3)」で述べた。フランス語版の単行本は、ブルーのすっきりした表紙、そして文庫本の表紙はカラフルなアフリカの地図をデザインしたものである。日本語版は、というと、クレーの絵を用いた、暖色のあたたかい雰囲気に仕上がった。

 「アフリカ文学」というと、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれない。「アフリカ」という「国」はないし、「アフリカ語」という「国語」もないではないか……、と。そういう方には、是非とも本書の第五講「国民文学と政治的デマゴギー」をご一読いただけたら嬉しい。というのも、この第五講は「『国民文学』という用語は矛盾を抱えています」という挑発的な出だしから始まるからである。申し添えておくならば、「アフリカ文学」という言葉が抱える違和感のうちに、20世紀のフランス語圏アフリカが抱えるナショナルなものをめぐる諸矛盾が内包されている、と私は考えている。だから、第五講は違和感や矛盾を解決する、というよりも、むしろ複雑にするはずだ。と同時に、これまでなんの違和感もなしに口にしてきた「日本文学」や「フランス文学」という「国民文学」もまた、矛盾を抱えたものに見えてくるはずである。

 本書の刊行にともなって、飛び上がりたくなるほど嬉しいこともあった。東京堂書店神田神保町店3階で、今、「遙かなるアフリカ」というフェアをやっている。私はパリに住んでいるので残念ながら訪れることができないのだが、写真で見て、こんなにも多くのアフリカ関連の本が日本語で読めるのか、と驚いた。普通、本屋は分野ごとに棚が分かれている。そのため、例えば私の場合、文学や思想の棚は見ても、経済やホビーの棚はチェックしていないことが多い。でもどうだろう。『アフリカンアート&クラフト』という本。むくむくと読書欲が湧き上がってくるではないか。「遙かなるアフリカ」フェアでは、「アフリカ」という主題のもと、分野に縛られずに本が集結しているため、これまで存在を知らなかった本、出会いそこねていた本がずらりと並んでいる。その多彩さに、ただただ舌を巻く。実は今、パリのジベール書店という大型書店でもアフリカを特集したコーナーができているのだが、東京堂書店の棚は規模で見るとジベール書店の数倍はありそうだ。これだけ集めた書店員の方には頭が下がるし、自分の不勉強さが恥ずかしくも思う。と同時に、写真を見るだけでもワクワクするのだから、実際に東京堂書店に訪れることができたらどれほど楽しいだろう。神保町に駆けつけることのできる人が心底羨ましい。

 本書は中村隆之さんとの共訳だ。今から10年前、大学1年の時、刊行されたばかりの『カリブ海文学小史』という中村さんの本で私は勉強した。要するに、本の著者として中村さんと出会ったのだ。だから共訳できたのは光栄だ。経験値ゼロの私にとって、共訳作業は計り知れないほど勉強になった。手順としては、私がまず翻訳し、それに中村さんが手を入れてくださり、さらにそれから何度もZoomやメールでやりとりして原稿を作った。

 ここでは、こういった一連の作業のうちの最初の段階、いわゆる下訳にまつわる個人的な思い出話を一つしておこうと思う。『アフリカ文学講義』の第七講は、「ブラック・アフリカにおける内戦と子ども兵」と題されている。取り上げられるのは、コートジボワール出身の作家アマドゥ・クルマの『アラーの神にもいわれはない』とブルンジ出身の作家ガエル・ファイユの『ちいさな国で』である。実はこの章を訳しているとき、私は学生寮に住んでいて、真向かいの部屋にブルンジ出身の青年が住んでいた。キッチンなどで彼とはよく会ったので、少しずつ仲良くなった。引っ越した時は、新居に遊びにきてもくれた。彼は私と同じくらいの歳なので、ブルンジ内戦の時、まだ2、3歳だったそうだ。そのため、『ちいさな国で』で描かれるような壮絶な虐殺は記憶にないという。でも、フランスでの勉学生活が終わった後は、多分ブルンジには帰らない、とも言っていた。この第七講を翻訳している時に、思い浮かべていたのは、そんな彼のことだった。『アフリカ文学講義』を開くと、幾つもの地名が登場するが、それらを読みながら、私は友人や隣人の顔をふと思い浮かべる。

 翻訳書を手にしながら思うことはいくつもある。そのうちのひとつは、この本を、私にフランス語圏文学という世界を教えてくれた立花英裕先生にお渡ししたかった、ということである。先生は去年の8月16日、旅立たれた。

 ある日、入院なさっていた先生から、電話がかかってきた。いつもと少し声が違った。察するものが、確かにあった。しばらく話したのち、唐突に、ルチアーノ・ベリオの「シンフォニア」を聴いたんだよ、と先生はおっしゃった。先生にとって、ベリオは思い入れのある作曲家だ。そんなベリオの「シンフォニア」の第3楽章で、「Keep going」と発声する箇所がある。その言葉が耳に残った、と、そう先生は電話でおっしゃった。それから、「Keep going」と何度も口にされた。次第に、声に力がこもっていった。電話の向こうから聞こえてくるその声に、私は何も答えることができなかった。このメッセージを、私は受け取るに値するだろうか。この言葉の重みを、私は受け止められるだろうか。Keep going——それでもこの言葉ほど、マバンクの本にふさわしい言葉もないのではないか。今、ようやくそう思えるようになった。ここから始めるのだ、と。