すっかり日がのびた。いま20時50分なのだが、外はまだ明るい。市場の商品棚に並ぶ顔ぶれも春、というか少しずつ初夏のそれになってきている。地味な色合いの根菜類にかわって、紙箱に詰められた苺、葉付きの人参や色鮮やかな蕪、白アスパラ、そしてまだ多くはないが西瓜などが並んでいる。日本には桜前線という言葉があるが、フランスでは春になると誰もが白アスパラを待っている。バターで焼くもよし、フライパンに湯を沸かして軽く茹でるもよし。マヨネーズソースやバターソースをつけ、指でひょいと摘んで齧ると、みずみずしい甘さのなかにほのかな苦味があり、冬を我慢したご褒美だな、と思う。
ベルヴィルからクーロンヌ、メニルモンタンにかけてはアラブ系の住民、特にカビル人が多い。それは知っていたのだが、4月になった途端に街にアラブ菓子が溢れ始めたので驚いた。よく行くパン屋も軒先に棚を出して山盛りの菓子を売っている。どうしたのかと思って尋ねると、ラマダンだから、とのことである。つまり街に溢れかえっている菓子は夜食なのだ。糖蜜がかかった揚げ菓子や、ピスタチオがまぶされた小さなケーキ、あるいは三日月の形をした白いクッキーのようなお菓子。敬虔さと楽しみの入り混じった非日常の風景がそこにはある。ラマダンが終われば、パン屋はまたもとのパン屋に戻るのだ。
とはいえ、日常と非日常は、そう簡単に分けられるものではない。日々舞い込む情報に触れながら、誰もがそれを身をもって感じているはずだ。
ちょっと前のことになるが、3月27日、ケ・ブランリー美術館のレヴィ=ストロース劇場で宮城聰演出の『ギルガメッシュ叙事詩』を観に行った。日本では今月、5月2日から5日まで「ふじのくに⇄せかい演劇祭」で上演される。物語は大きく分けて二部構成からなっていて、第一部はギルガメッシュとその友エンキドゥがレバノン杉を伐採するために森の守り神であるフンババを征圧する物語である。だが、自然を征服した代償は決して小さくない。ギルガメッシュは友を失うことになる。こうして第二部は、永遠の命を求めるギルガメッシュの旅路が描かれる。
劇場は満員だった。そして、ほぼ全員、マスクをしていなかった。かくいう私も、マスクをしていなかった一人である。マスクをしていないと、確かに呼吸が楽ではある。だが、隣の人が急に咳き込んだりすると、にわかに不安になる。実際、この不安によって観劇中の緊張感は何度か途切れた。マスクなしでの生活が日常に戻ってきたかと思いきや、やはり不安は拭えない。
マスクに関連して、思わぬ葛藤に苦しむこともある。古い雑誌を閲覧するためにアルスナルにある国立図書館に行った。表面が滑らかに摩耗した木製の味わい深い机に座って資料を読んでいると、斜め前の人がマフラーに口を押し当てて咳をしている。咳をする、一粒トローチを口に放り込む。またしばらくすると苦しそうに咳をする、一粒トローチを口に放り込む。要するに、トローチとマフラーで誤魔化しつつ、ノーマスクで咳をしまくっているのである。しまったな、と思った。慣れでマスクを外していたのだ。今からマスクをつけるのは、なんだか申し訳ない。マスクはポケットの中にある。手を突っ込むと、不織布の毛羽だった質感が指先に触れる。さっと取り出して、つければよい。ただそれだけなのだが、なんだか申し訳ない。こんなふうにうじうじしていると、前の席の別の人がおもむろにマスクを手にし、つけた。これ幸いとばかりに、私も便乗してマスクをつけることにした。咳をしていた人は、やはりバツが悪そうだった。私もバツが悪かった。みんながマスクをしていないからしない、あるいは誰かがマスクをしているからする。自分というものがないのか。このように、結局自らを責めることになるのだから、はじめからマスクをしておけば(あるいは割り切ってマスクをしなければ)よかったのである。
ちなみに、フランスの現在の平均感染者数は1日あたり65454人であり、病院で亡くなった人の数は1日平均123人である。決して少なくなったわけではない。それでも、非日常はある瞬間から日常のような顔をしはじめる。慣れ、ではあるが、その慣れは時間の経過によるものもあれば、官製のものもある。フランスの場合、後者の方が目立つように思われる。というのも、地下鉄ではマスク着用が義務付けられているからみんなマスクをしているが、一歩メトロの外に出たら、マスク着用の義務はなく、誰もが晴れ晴れとした顔でマスクを外しているからである。政府が決めた方針に従っているうちに、いつの間にかコロナという非日常は何気ない日常に転ずる……そんな気分を皆味わいたいと思っているのだ。日常とは何なのだろうか。