猫といっしょに暮らしていると、種の違いより哺乳類同士の近さを感じることの方がはるかに多い。猫は四足で歩行し体は柔らかな毛におおわれ尻尾があって、もちろんヒトはそうではないのだけれど、さわればあたたかく、目は感情を表し、顔の真ん中の小さな2つの孔は吸う吐くという呼吸を繰り返している。背中をなでれば、あたたかな体の中では心臓から送り出された血液が全身のすみずみに運ばれ、毛細血管をめぐって戻ってくることが想像できて、この小さな生きものがヒトと同じ仕組みで生命を保っていることに感じ入ってしまう。近しさと親しみが自然と湧いてくる。
前足だってそう。猫の手足を間近に見るようになって、「猫の手も借りたい」といういい方に合点がいくようになった。猫の前足は5本の指がパァーっとよく広がり、物をつかむときはギュッと縮み、爪をしっかりと立てて抑え込むこともできる。猿のようなわけにはいかないだろうが、犬のそれよりはるかに細やかな動きで、これは手未満、足以上のもの。こんな手を見ていたら、役に立たないとはわかっていても「おい、忙しいんだ。ちょっと、ここ押さえててくれよ」とか、頼みたくもなるというものだ。
長くいっしょに暮らしていると、人間同士のつきあいのように関係性が変わっていくのもおもしろい。私が仕事場にも使ってきた母の住まいには2匹、野良から昇格した15歳のチビと10歳のグーが暮らしている。15歳といえばヒトでいったら中学3年だが、猫年齢では初老くらいか。けっこう長いつきあいなのだが、やはりこの家には年老いた女主人がいると思っているのか、毎日顔を合わせごはんをあげていても、私のことはどうも通いのよそ者としてしか認識していないようだった。それが、母がお泊りサービスに出かけて留守がちになり、私が週に3日泊まるようになって2年、少しずつ飼い主としてというのか、同居人としてというのか認めてもらえるようになってきた感がある。朝に起きるとすぐ近くにいて顔を合わせ、「おはよう」というのが案外大きいのかもしれない。
猫と仲良くなるのは冬、というけれど、たしかにこの冬の間にチビと心を通わせることができるようになった。冬に親しくなれるのは、寒いからだ。温かい飲み物を欲するように猫も体温のある生きものが恋しくなるらしい。なでてくれたり、あれこれことばをかけてくれたり、茶飲み話をするような友だちが。家の端っこの、かつて母がミシンをかけたりするのに使っていた小部屋につれていってなでてやったら、庭全体を見渡せるこの場所がえらく気にいったようで、何かにつけてここに私を誘い込む。外から帰って、玄関に荷物を置くと、すぐにこの小部屋に走り込んで私が行くのを待っている。ガラス戸を開けてもらって、寒くても雨でも雪でも外の空気に当たり、庭をながめて外の気配を匂いで感じ取り、私とあれこれ話をするのを楽しみにしているのだ。
「話をする」と書いたけれど、交歓というのか生きもの同士のやりとりというのか、ことばをかければその声の調子からちゃんと感情が伝わっているのは、犬や猫を飼ったことがある人なら容易にわかることだと思う。私にとっても、どこで鳴らすのかゴロゴロという猫が安心しているときに発する音が聞きながら、いっしょに庭を眺めるのは気持ちのいい心和むひとときだ。
たまたまチビは猫であり、私はヒトである。でもその逆もあり得た。偶然にもいま、別々の器の中に命を注がれていっしょに同じ空気を吸い同じ風景を眺めているだけ。生きものとしての境界を超えてしまうような、そんな思いにかられる。そして、このごろは、「おまえ、キエフの猫じゃなくてよかったね」と、つい口をついて出ることが多くなった。布の袋から頭だけ出して飼い主と避難する猫や、水たまりの水を飲む濡れそぼった猫や、瓦礫の上を足を引きずって歩く猫を報道で見た。苦しくなる。つい2ヶ月前までは暖かな場所で背中をなでてもらっていたろうに。
お腹をなでてやって安心しきると、前足を出したり引っ込めたり、もう少し正確にいうと指を広げたり縮めたりするのを繰り返す。これは、子猫のときに母猫のおっぱいをふみふみして飲むときのしぐさだ。それをエアでやっているわけだけれど、幼いときの行為を老齢になっても記憶として残していることに感じ入る。ヒトの中にも何かそういう乳幼児のときの記憶の残滓というものがあるのだろうか。
と、チビのことを書いてきたけれど、悩みの種はもう一匹の猫、グーのことである。私を飼い主と認めるどころか、どこまでも怖がって近づいただけで逃げる。理由ははっきりとわかっている。子猫だったこの猫が何度も家に入り込もうとしたとき、すでに2匹の先住猫がいたこともあって、私は本気で追い出した。それでも、ここを住処と決めて居着いたのだからあっぱれというしかないのだけれど、以来、私には敵対心をむき出しにする。母にはなついているのに。この先、グーと和解する日がくるだろうか。いや、あれは虐待ともいえるものだったのだろうから、それはないのかもしれない。でもせめて、恐れられない存在にはなれないものだろうか、と思う。
死ぬまで猫といっしょに暮らしたい。できるのだった犬だって飼いたい。部屋の中を四足の動物が歩いているのを見ると、幸せな気持ちでいられるから。最近、ジョージ・オーウェルが相当な動物好きだったことを知ってうれしくなった。ビルマでは山羊や鴨を飼い、帰国した英国の田舎でも山羊と鶏を飼っている。眺める世界に生きものの存在が見えているかいないか。その違いはけっこう大きい気がするなあ。