本小屋から(10)

福島亮

 名刺が必要になる場面はたしかにあるけれども、かといって他人に渡せるほどの情報は特にないから、ながいこと、必要が生じたら名前とアドレスと電話番号を小さな厚紙に手書きして渡していた。必要、というのは、多くの場合、アルファベットで自分の名前を綴る必要のこと。震災以降、私の姓の方はどれだけ拙い発音で名乗っても書き取ってもらえるのに、喉奥を軽く振るわせて発音すべき名の方は、いくら頑張っても正確に聞き取ってもらえず、ならばと思って、公式の場以外ではLを使って発音したり、ブラジルの都市の知名度を利用して、yの代わりにiを用いて名乗ったこともあるが、結局、書いてしまうのが手っ取り早い、という結論に至り、それからしばらくは小さな厚紙にボールペンで名前、メールアドレス、電話番号を書いてひとに渡していた。

 一年ほど前から、名刺が必要になる機会が急に増えた。そこで通販サイトを利用して簡素な名刺を作った。とはいえ肩書きといえるようなものはどうしても見つからず、仕方なしに「フランス語圏文学研究」とだけ書いた。が、それでは許してもらえないことも多く、私がおずおずと名刺を渡すと、紙片をじっと眺めてから、「で、ご所属は?」と訝しげに質問する人がままいるのである。正直、そういう質問はあまり好きではないし、だいたい「所属」なるものを知ったところで何になるのか分からない。だが、たしかに「所属」を書いていないのはある人々にとっては無礼なことかもしれない。だから「で、ご所属は?」と問われたら、いくつかの大学で語学教師をしていますと答えることにしている。

 毎学期、都内のある大学のフランス語の授業でお茶会を行っている。お茶会といっても、飲み物は各自持ち込みで、有志にちょっとしたお菓子を持ってきてもらう。なまものは禁止。マドレーヌ、クッキー、ビスケットなど、小さな焼き菓子が教室に集う。その授業は受講生の半分がいわゆる学部生、もう半分が社会人聴講生だ。するとどうしても学部生と社会人聴講生のあいだに意図せぬ壁ができてしまう。語学の授業において、受講生のあいだの壁ほど有害なものはない。それが講読の授業であれ、文法の授業であれ、言語を学ぶ以上、教室は開かれた環境であった方がよい。誰もが発言でき、皆がそれに耳を澄ませ、それを受けてまた誰かが発言する。こんなふうに、言葉が自由に行き交う場が理想的だと私は思っている。教師が学生を指名し、指名された学生が発言するだけでは意味がない。実際に言葉が発声されるかどうかが重要なのではなく、その場にいるひとたちと交流したい、目の前にあるテクストについて語ってみたい、誰かの意見を聞いてみたい、という心の持ちよう、心の風通しが重要なのだ。たしかに、学部生と社会人聴講生のあいだには年齢の差があるけれど、それによってコミュニケーションの回路が機能しないのはもったいない。教室で何かを学びたい、教えたい、伝えたい、という気持ちは、学部生にも聴講生にもきっとあるはずだからである。教師がやるべきことの一つは、そのような教室内の交流のためのちょっとした環境整備だ。

 もっとも、じつはこのお茶会の背景にあるのは、そんな大袈裟な教育論ではなく、もっと個人的ないくつかの思い出である。もう10年以上前になるが、政治学者のフランソワーズ・ヴェルジェスさんが日仏会館でセミナーを行った。当時私は学部3年生だったが、どういうわけかそれを聞きに行った。セミナーの主題は、フランスの植民地政策と海外県。緊張感の漂う主題だ。ロの字型に並べられた席につく。参加者の多くもどこか緊張した面持ちだ。ところが、ヴェルジェスさんは席につくと、来場者にむかって微笑み、おもむろに小さな箱を取り出した。それはチョコレートの小箱だった。よかったら、みんなでわけましょう。そこで彼女が語った内容はあまり覚えていないのだが(そもそも、フランス語の議論についていくだけの語学力が私にはなかった)、参加者のあいだにその小箱がバトンタッチのようにまわされた光景をいまでも朧げに覚えている。それから5年ほど経って、私はパリに留学したのだが、そこでも、研究会やちょっとしたセミナーにコーヒーやお菓子はつきものだった。そんないくつかの思い出が背景となって、ちょっとした飲み物や食べ物を媒介しながら、おしゃべりでもするように授業ができたら、といつの頃からか思うようになった。

 もう先月のことになってしまうが、やはり今学期もお茶会をおこなった。BGMにフランス語の歌を流し、この日ばかりは私も黒板の前ではなく、学生用の椅子に座る。机の上には、すでにお菓子が綺麗に並べられている。そのうちのひとつに透明な袋に詰めたクッキーがあった。私の視線は、クッキーではなく、その袋に封入された小さな厚紙のほうにむかった。脆い焼き菓子が崩れないように、袋の大きさにあわせて一枚一枚切り抜かれたその厚紙が、この場を作り上げている学生たちの心をあらわしているように思えた。