帰宅してまずするのは、ベランダの野菜たちへの水やりだ。タンクを満タンにしておいた加湿器が数時間後には空になって自動停止してしまうように、この時期はいくら水をやっても、気がつけば土の表面が乾き、葉がしんなりしてくる。とくにミニトマトとピーマンは蒸散の量が多いのか、一日に二度、早朝と夜に水をやらないと実のつき方が悪くなる。ピーマンに至っては、実の下部が腐り始める。尻腐れ病だ。
植物に水をやるために行き来する居間は高温である。越してくるまで、富山といえば雪国で、雪国であるからには涼しいものと思い込んでいた。フェーン現象という言葉を聞いたことはあったけれど、それが何を意味するのかまでは知らなかった。今の住まいには、入居時にエアコンが付いておらず、ずるずると設置を先延ばしにしていたのだが、先日、ありがたいことにエアコンを無料で譲ってくれる人がいた。おかげさまで、帰宅後すぐにエアコンをつけられるようになった。しかし、室内の熱は執拗に残り、息を詰まらせる。汗を流しながらの水やりは、その息苦しさを紛らわせるための時間でもある。
いくら水をやってもだめかもしれない。ふと、そう思う。ここしばらく雨が降っていないから、鉢の中に熱がたまりっぱなしなのだろう。ミニトマトの葉の色はくすみ、ところどころ枯れ始めている。それとも、もう収穫の時期が終わり、枯れていくころなのか。いずれにせよ、早朝と帰宅後の水やり程度では、この暑さと雨不足に太刀打ちすることはできないようだ。
人間の意思や努力、あるいは期待ではどうにもならないものがあることを、これら不憫な鉢植え植物たちは教えてくれる。同様のことを、富山城址公園で死んでいった107羽の鷺たちも警告しているのだと思う。5月頃だったろうか、夜、城址の前を通ると、怪鳥の叫びのような声が鳴り響いていた。あれはきっと、子育て中の親鳥の声だったのだろう。鳴き声や糞に対しては、苦情もあったに違いない。市としては、松を伐採すれば、騒音問題の元凶である鷺たちがどこかに行ってくれるものと思っていたらしく、巣のあった松の木を伐採した。だが実際には、巣立つ前の若い鳥たちは、どこへも行かず、飢えと疲れによって次々に死んでいった。よく「生存本能」という言葉が用いられるが、この鷺たちの死は、その本能なるものが思っているよりもずっとか細く、脆いものであることを知らせてくれる。
邪魔なもの、迷惑だと思われているもの、視界から消えてくれたらいいのにと思われているもの——その住まいを破壊し、居場所を奪い、どこかに出ていくよう仕向けたところで、そう易々と出ていくことはなく、破壊されたかつての居場所は墓場になっていく。この107羽の鷺たちは現実であって寓意ではない。それでも、あたかも現在進行形で起こっている虐殺の寓意であるように思えてならないし、排外主義がもたらすものの寓意であるようにも見える。
そんなことを考えながら、プランターに生えた細かな草を抜いていた。せめてものケアをしておきたいと思った。ツルムラサキの土から生える草を引き抜いたとき、芳香に手が止まった。ツルムラサキを植える前に同じプランターに植えていたエゴマの香りだ。うまく育たず枯れ始めてしまったので、エゴマを抜いてツルムラサキを植えたのだった。あのときのエゴマが、知らぬ間に種子を落としていたらしい。
抜いてしまった方がよい邪魔な草だと思っていたその小さな植物を、もう一度プランターに植え直してから、もう一度、水をやった。