ジュスイ……チュエ……イレ……エレ……。音声ファイルを再生すると、辿々しく小鳥が囀るような声が聞こえてくる。「初修第二外国語」(と、記してみて、「第一外国語」ってなんなのだろう……という自問がどうしても浮かび上がってくるのだが)としてフランス語を学んでいない学生を対象とした春休みのあいだの集中レッスンをしており、その課題として、指定した箇所の録音ファイルを送るように言ってある。その最初の課題が提出された。習いたての動詞の活用を掌に乗る小さく薄い機械に向かって吹き込む彼ら彼女らの声はまだ自信がなさそうなのだが、しかし、「わたしは、きみは、かれは、かのじょは」という、まだ不器用ではあれ確かな意味を持った言葉たちを聞いていると、15年前、大学の教室で同じ動詞の活用を初めて口にした時のことが思い出される。震災のため連休明けまで授業がなかったから、買ったばかりの教科書を持って教室に入った時には、ややくすんだ窓の外の5月の緑が鮮烈だった。あの時教室にいた初夏の雛鳥たちもやはり、ジュスイ……チュエ……イレ……エレ……と、どういう仕組みかもよくわからぬままに、英語のbeに相当する動詞を口に出し、覚えようとしていた。フランス語を学ぶ際に真っ先に覚えさせられるこの動詞は、その活用のややこしさを除けば一見単純なように見えるけれども、そこに秘められた意味と用法の多様さを理解するのは一苦労で、5月の教室の黒板の前に立っていた親鳥はきっと、そんな先のことまで想像し、いつか彼ら彼女らにそれがわかる時が来ることを信じながら、辿々しい呟きを聞いていたのだと思う。
外国語は、学ぶよりも教える方がずっと楽しい。もちろん、外国語の入門書を手にすると胸がときめくし、例えば「ひよこ豆」を英語でなんというのかとふと気になって調べてみるのは楽しいことだ。けれども、それを継続的に行うとなると、根気が必要になり、そして残念ながら私に決定的に欠けているのはこの根気だから、一冊の入門書を計画的にこなすよりも、あれやこれやに手を出して、結局何もものにならない。けれども、教えるとなると話は別だ。その時に必要なのは使い慣れた教科書で、しかも欲を言えば、できるだけ薄くて簡素で一見不親切なものが良いのだが、それさえあれば、チョークでアスファルトに描いた線路の上を機関車になって進むように、一つ一つの停車駅にとまることができる。教師という立場が避け難く持ってしまう優位性を味わっているのかもしれないけれども、実感としてはむしろ、自身の理解のあやふやさにビクビクしながらの運行だから、教えながら教わっているという方が近い。きっと外国語というのは教わるよりも教える方がずっと得るものが多いのだ。だから時々、例えば学生が外国語を教わるのではなく教えることでその言語を学ぶような授業を組み立てられないかと夢見ることがある。教師は教室の隅に座っていて、見守り、彼ら彼女らが教える内容が間違っていたら指摘してやり、発音ができなければなおしてやる。15人程度の小規模な教室ならば、もしかしたらそんな教え方でもうまくいくのではないか、などと思いつつ、まだ実行はできていない。
先に教科書について、できるだけ薄くて簡素で不親切なものが良い、と記した。職業柄手元には多くの教科書が送られてくるのだが、それらは基本的には多色印刷で、美しい写真やイラストがふんだんに添えられており、紙の質もそれにあわせてツルツルしている。ほとんど強制的に選択させられる「初修第二外国語」の学習経験を可能な限り心地よいものにしてやろうという教科書執筆者の思いやりのあらわれだろうし、また、徐々に必修の枠から外され、それに伴って加速度的に学習者が減少している「第二外国語」であるから、「お客さん」にできる限りアピールして、選んでもらいたいという商魂のあらわれでもあるだろう。そのどちらも大切だということは、私自身も語学を教える立場にあるから理解しているし、たしかに、多色刷りで紙の質の良い教科書は、驚くほど高度な教授テクニックがそっと盛り込まれていて、それ自体、語学教育にかんする最新の学術的知見の産物なのだということがよくわかる。けれども、教科書に対する「フェティシズム」という観点からいうならば、そのような親切な教科書が必ずしも魅惑的とは限らない。むしろ、一見不親切な薄っぺらい教科書の方が何年経っても忘れられないということが、私自身について言えば、よくある。数年前、さる高名な批評家が語学教師として作った初級フランス語の教科書が復刊されて話題になった。1981年という、今とは比べ物にならないほどフランスの文化的威光が眩かっただろう時期に作成されたその教科書の一見簡素でありながら贅沢な造本はなんとも蠱惑的で、しかも、やや硬めの紙で作られた表紙は、半年も使っていれば手に馴染んで柔らかくなり、そうなればもう手放せなくなるだろう。現在の教科書の水準から見たら不親切に見える簡素な文法説明も、よく読んでみると、著者の経験に裏打ちされた貴重な助言に満ちていて、それを初学者が受け止めきれるかどうかは別だけれども、親切に思えてくる。
外国語を教えることと学ぶことをめぐるこのようなフェティッシュな感覚は、おそらく指標化された言語の運用能力とはまったく別の次元のものだろう。日々進化していく外国語教科書は、そのことをよくわかっている。けれども、機関車になり、冷や汗を流しながらチョークの線路を進みつつ、ふと思うのは、そういった運用能力とは別の次元で、ある言語に執着できるかどうかこそがきっと大切なのだということ、また、執着という観点から見るならば、ノスタルジックな教科書も決して馬鹿にはできないということだ。そしてなによりも、どの時代にあっても、初級フランス語の教科書は、あの動詞の活用を辿々しく不器用に発音しつつ覚えることから始まる。それだけはきっと、どれだけ教授方法が進歩してもさして変わることはないだろう。ジュスイ……チュエ……イレ……エレ……。