うたと家族と、るう (3)

植松眞人

 三・歌えないうたを抱いて

 うたが生まれた頃、優作は音楽レーベルの取締役に収まっていた。最初はアーティストのマネジメントをしていたが、歳の近いアーティストが薬物によって逮捕される事件が発生すると、法務とのやり取りを任されることになった。その時の仕事ぶりが買われ、弁護士とのやり取りや書類の処理が主な仕事になり、優作はクリエイティブな業務からは完全に離れる結果となった。都内の内装の豪華な産婦人科で、ハイブランドのスーツを着てうたを抱いている優作の写真は、まるで冗談を合成写真にしたように不自然だった。その隣で、淡いパステルカラーのマタニティウェアを着ている美代は、優作とは不釣り合いだった。
 うたの最初の記憶は、父と一緒に歌っている風景だった。誰かの記憶と混ざっているのかもしれないけれど、行ったこともないような田舎の風景の中に、スーツを着た優作に抱かれた自分をよく思い出した。優作に抱えられた自分は腰のあたりで身体がくの字になり、目の前には揺れる砂利道があった。不思議と息苦しくはなく、揺れる砂利道を見て、うたは笑っていた。そして、その揺れに合わせるかのように、優作の歌声が聞こえた。何を歌っているのかは分からなかったけれど、うたは心地よくそれを聞いている。聞いていると、優作の声に混ざって美代の声がかすかに聞こえる。なんと言っているんだろう。美代は、おかあさんは、私たちと一緒に歩いているんだろうか。それとも、どこかから声だけが聞こえているんだろうか。そう思った途端に、ほんの少しだけきれいなピアノの音が聞こえた。そして、ピアノの音の間から美代の声が聞こえた。「お父さんに歌の題名を聞いてごらん」とその声はうたに言うのだけれど、美代の声はうたを緊張させた。その緊張が優作の手に伝わったのか、優作は歌うのをやめてうたを抱え直した。うたは美代の声を聞いてしまったことがいけないことのような気がして、優作に抱えられながら息を殺した。
 うたの家は広かった。幼稚園の頃から遊びに来る友だちが「うたちゃんのお家は広いねえ」と繰り返すので、うたは自分が大きな家に住んでいる恵まれた子どもなのだということをはっきりと自覚していた。けれど、それを自慢したい気持ちはなく、みんなと違うところに住んでいるという居心地の悪さを感じていた。そして、自分以外の友だち同士は互いの家を行き来したり、時にはお泊まりで遊んだりしている話しを聞いて、自分だけはその輪の中に入れないのだということを知っていたような気がするのだった。
 一度、幼稚園の年長さんが終わる頃に、たくさんの友だちが遊びに来たことがあった。うたの友だちと言うよりも、美代と話ができるママ友が数名、子供を連れてきた、という感じだった。実際、こんにちは、と遊びに来た同じ幼稚園の子のなかには、一度も同じクラスになったことがない子もいたし、同じクラスでもほとんど話したことがない子もいた。
 それでも母親同士が楽しそうにしているので、うたもその他の子たちもできるだけ楽しそうに話し、絵本を読み、玩具で遊んだ。
 そのうち、リビングルームに置いてあるアップライトのピアノをママ友たちが話題にし始めた。深い青色のピアノの色にみんなが魅了された。
「ねえ、美代さん、さわってもいい」
 誰かが言う。美代は嫌な顔を見せずに、ピアノの蓋を開けて見せた。真っ白な白鍵と漆黒の黒鍵が並び、鈍く光っていた。その美しさにママ友たちが魅せられ呆然としている間に、美しいということが理解出来ない馬鹿な女の子が一人、ママ友たちの間をピアノに向かって歩いていることにうたは気が付いた。どうしよう、ママのピアノにあの子の汚い手が触れてしまう。そう思った瞬間に、美代がピアノと女の子の間に身体の移動させるのが見えた。女の子は行く手を阻まれたのだけれど、どうしてもピアノに触れたかったのか、美代の身体を押し退けるような格好で、鍵盤に触れようとした。すると、美代はみんなから見えないようにその手をすっと自分の両手で包み込んだ。女の子は美代の顔を見上げたけれど、美代は笑ったままだった。そして、女の子の手を下に降ろさせた。流れるような動きだったのだけれど、その時、女の子の表情が歪んだ。女の子は飛び退くようにピアノから離れた。森の中で遊んでいて、急にスズメバチの羽音に気付いた時のように、女の子は歪んでいた顔をさらに歪ませて、自分の母親を探した。うたも同じようにその子の母親を目で追ったが、その子のママは美代のピアノの美しさに夢中で自分の子どものことは何も見ていなかった。ふいに、そのママが声をあげた。
「ねえ、ナナちゃん、ちょっとだけピアノ弾かせてもらおうか」
 その声に、ママ友たちから歓声があがり、拍手が起こった。美代は笑ってナナちゃんと呼ばれた子を手招きした。ナナちゃんはさっき誰にも知られず美代から包み込まれた右手をギュッと握りしめながら、そこに立っていた。
「ほら、いいって。この前、発表会で弾いたでしょ。あれを弾いてあげて」
 ナナちゃんママがそう言うと、ナナちゃんはもう一度、恐る恐るピアノに近付いてきた。美代はピアノの椅子の高さを調整して、それでも足りないと分かっていたので、別の部屋から硬めのクッションを持ってきて椅子の上に置いた。準備ができると、ナナちゃんママがナナちゃんを抱えてそこに座らせる。他のママも協力して、椅子をピアノに近付けると、演奏の準備が出来上がった。
 うたは美代を見ていた。美代はナナちゃんたちを見ながら笑っていた。
 ナナちゃんはピアノを弾こうとしなかった。ナナちゃんママが何度言ってもナナちゃんはじっと動かなかった。ナナちゃんママが焦って、いつもは弾くじゃない、と少し大きな声を出すと、ナナちゃんはギュッと握りしめていた右手を差し出した。その手は赤く腫れていた。ナナちゃんママが、その手を見た。
「どうしたの。腫れてるじゃない。こけたの。打ったの」
 矢継ぎ早に聞くが、ナナちゃんは答えられない。その時、美代がナナちゃんに問いかけた。
「ねえ、どこかで転んだの。それとも、幼稚園でお友だちとケンカしちゃったのかな」
 うたは美代の言葉にナナちゃんが答えられないことを知っていて、なぜかナナちゃんの助けないといけない、と思ったのだった。
「ママがピアノを弾いて。私が歌うから」
 うたがそう言うと、美代はとても嬉しそうに笑った。
「ほんとに。うたちゃん、いままでうちで歌ったことないもんね」
 そういうと、ナナちゃんを椅子から降ろし、椅子の高さをアッという間に調整しピアノの前に座った。
 ナナちゃんのことは何もなかったかのように、演奏の準備が整った。ナナちゃんママは、勝手に戦いを挑んで、勝手に負けてしまった人のように打ちひしがれていた。ナナちゃんはすでにさっきのことも手が腫れていることも忘れて、これから始まる美代の演奏とうたの歌に目を輝かせている。その様子を見て、うたはナナちゃんが可哀想でならなかった。これからもずっとナナちゃんは私の歌を待っているんだと思うと、なんて可哀想な女の子なんだと涙が出そうになった。そして、そんなナナちゃんを育てたナナちゃんママは悪い人だと思った。もしかしたら、ナナちゃんママは悪い人じゃないのかもしれないけれど、ナナちゃんが可哀想な子になってしまったら、ナナちゃんママは悪い人になってしまうんだ、とうたは二人を見つめた。その時、うたはこれからどんなことがあっても、可哀想な子にはならないと決めた。できるかどうかわからない。けれど、少なくとも自分で自分を可哀想だと思うような子にはならないと決めた。いま、目の前のナナちゃんは可哀想だと思って欲しい顔をしていた。
 美代はしばらくぼんやりとリビングの中を見渡したあと、少しだけ空いた大きな窓を見ていた。そして、たまに吹き込む風でレースのカーテンが揺れるのを見ていた。みんなの視線は美代の指先に集中していた。美代は見つめていたカーテンがふいに浮かびあがった瞬間に両方の手をほんの少し上げて、そのまま降ろした。和音が鳴った。とても綺麗な音が響いた。その場にいたママたちと子どもたちがしんと静まり返った。ナナちゃんママの顔はもっと悲しそうな顔になったし、ナナちゃんの顔はもっと可哀想に見えた。
 うたは、美代が弾いたその曲を知らなかった。聞いたことのない曲だった。美代が家でピアノを弾くことはないし、もしかしたら、ピアノの蓋を開けたのも今日が初めてだったかもしれない。そんなことを考えていたら、今日は家の中の何かが、美代の何かがこれまでと違ってしまった日なのかもしれないと、うたは思い始めた。美代の演奏は少しずつ和音を重ねていく。うたは細く小さく、あー、と歌った。和音の間に、うたの声が不協和音となって差し挟まれた。美代がピアノを弾く手をとめる。最後に弾いた音だけが残響として響き続ける。うたの細い声もその音の美しさをはぎ取るかのように続く。心地の悪い不協和音が次第に音が小さくなっていくのに、響きだけが大きく鳴っていくかのような印象をリビング全体に残していく。
 十九歳になったばかりのうたは、時々、あの日のことを思い出す。あの日、なぜ母はあんなにたくさんのママ友や幼稚園児を家に入れたのか。日ごろ、人を招くことなんてないのに。そして、普段は家でピアノを弾いたりしないのに、なぜ、ピアノを弾いたのか。なぜ、自分は歌など得意でもないのに、歌うと言い出したのか。なぜ、母の弾く和音を乱すような声を出したのか。いや、出せたのか。あの日からうたは歌わなくなった。正確には、歌えなくなった。うたという名前なのに、と誰に揶揄されても、例え、音楽の授業で成績が付かなくても、うたは歌わなくなった。美代は時々、ピアノを弾くことはあるけれど、あの日のように弾くことはない。誰もが知っている楽譜通りの音を、まるで自動演奏のピアノが弾くように弾く。