アオバズク

笠間直穂子

 休日に、腕時計をつけずに町の中心部へ出かける。喫茶店に入って、本を読んでいて、ふと、いま何時かなと思い、店に掛け時計があればそれを見るけれど、ないことも多い。あることはあるが、正確かどうかわからない場合もある。

 そもそも、腕時計を置いてきたのは、時刻を知りたければ携帯電話で見ればいいと思ってのことでもあるから、ここで手持ちの旧式の携帯電話を鞄から出す。あるいは、席に着いたときから、テーブルに出してある。でも、出しておくだけでは時間はわからなくて、電話のどこかに触れなくてはいけない。すると黒い画面に、ぱっと時刻が点る。

 あえて画面に指で触れなくても、手に取って少し傾ける程度で画面が点く機種もあるけれど、それでも、真っ暗だった画面に、こちらが操作を加えることで、突如として時刻が表示されることに変わりはない。

 そのことに、軽い引っかかりを覚える。いつも使っている、あの長針と短針と秒針がついた文字盤の腕時計なら、わたしが見ていないあいだも、刻々と針を動かしていて、本に両手を添えたまま、ふと目をやれば、その一瞥で済む。本から手を離す手間もないし、なにより、見る前から確実にそこで現在時刻を示してくれているという、安心感がある。

 いま、この瞬間、自分のいる喫茶店から一キロ彼方の、家の下駄箱の上に置かれた腕時計の様子を思い浮かべた。だれに見られることもなく、針は一秒一秒、微かな音を立てながら、ほんの少しずつ位置をずらして、時を刻んでいく。

 大学院に進学したころだったか、はじめてノートパソコンを手に入れて、まだ使ったことのない妹に見せたとき、ワープロソフトの文書を「閉じる」と、それまで画面に表示されていた文書が一瞬で消えてしまうことに、妹は、あ、と小さく驚き、不安な目をした。

 そういえば自分も最初はそうだったと、その表情を見て思い出すとともに、自分がその驚きを通りすぎて、消えたように見えても消えたわけではない、しまわれただけだ、と説明できることを得意に感じた。妹も、すぐに驚かなくなったことは言うまでもない。

 けれども本当のところ、表示されていた文章や画像は、目に映る現象としては、間違いなく、瞬時に、あとかたもなく消えている。「開く」「閉じる」は、実際には、開けたノートを閉じたり、本を本棚から出したりしまったりすることではなく、いま見ている画面が一瞬にして現れたり消えたりするのを、現実の物質世界に仮託して、そう呼んでいるだけだ。

 若いころから、再生中の映像や音楽を途中で断ち切られると、軽い痛みが走るようで苦手だったが、名前のとおり「個人」ごとの記録の、作業場にして倉庫であるパーソナル・コンピュータの場合、不意の消滅は、完成されただれかの作品を再生するときとは別種の不安を誘う。

 今日の作業を終える段になって、自分がつづっていた文章、描いていた絵、などを「保存」して「閉じる」とき、かけた労力に見合わないほどあっさりと、それらは画面から消える。毎日のことで、ほとんど意識にはのぼらないものの、実をいえば、やはり毎回、わたしは微かな心細さを感じている気がする。

 一瞬で消える、という現象のレベルだけで、すでに不安に値するが、加えて実際、それらが消えたきりになる可能性も、いくらかは、つねにある。書類棚一本分でも、百本分でも、機械が故障すれば突然消え失せるし、そうしようと思えば、わたしがいまこの指で、すべてを完全に消滅させることも、簡単にできる。そう考えるとき、棚だか机だかに「書類入れ=フォルダ」が並んでいる、かのごとき見立ては剥がれ落ちて、情報はものではない、という、裸の事実が顔を出す。

 長い時間をパソコンの前で過ごす仕事に就きながら、こうした不意の消滅や出現、実体のなさ、消失の不安に、たぶん、わたしはずっと、小さな打撃を受けつづけている。慣れによって乗り越えたわけではなく、ただ意識しないよう自分を抑えているだけであって、実は、画面を点けたり切ったり切り替えたりするたびに、自分はあのときの妹と同じ、不安げな目をしているのではないか、と思うのだ。

 それでも、わたしは通信機能つきの超小型パソコンと化した今日の「賢い」携帯電話をもっていないので、画面の切り替えを目にする頻度は、いまや、多くのひとに比べてずっと少ない。あの表示面積の小さい画面の普及によって、ひとが日常的に目にする影像の出現と消滅のペースは、画面の大きなパソコンとは比較にならないほど、加速しているのだから。

 そうした電子機器のすべてが有害であるとか、昔はよかったとか、そういったことを言いたいのではない。ただ、ごく具体的な、身体に即したレベルで、現在のわたしに起きていること、周りのひとに起きているかもしれないことを、気にかけないでいるのが、わたしには難しい。

 すべてが瞬時に現れては消えつづける、情報がものに取って代わる、その心許なさを、いま、多くのひとが、意識の底で共有しているのではないだろうか。

     *

 ものは、情報ではないから、いまここに見えていなくても、どこかに、実体としてある。間違いなくある、と思うことができる。家に置いてきた腕時計のように。

 情報が明滅する画面から目をあげれば、実物のひしめく世界が見える。辞書。机。カップ。窓。窓の外にも、無数のもの。それが生きものなら、たとえ見えなくても、ときには向こうから、存在を知らせてくれる。

 ある年、春が過ぎて、夜も冷えなくなってきたころ、日が落ちたあとに、仕事部屋の前の藪から、ホ、ホー、という、低めの、優しい、くぐもった声が聞こえてきた。かならず、二度つづけて鳴く。フェルトのような耳触りの声色に、思わず耳を澄まして、次を待つ。

 アオバズクだ。フクロウの仲間で、体は茶色と白、顔は黒く、目は黄色い。わたしはパソコンの画面を見て、日本野鳥の会の「野鳥図鑑」や、サントリーの「日本の鳥百科」といったウェブサイトで、そう確認する。でも、本物の姿を見たことはない。

 見てみたい、とも、特に思わない。鳴くのはいつも夜で、見えなくて当然だ。だから、そのままでいい。本物のアオバズクは、わたしにとって、木々のにおいのする暗闇のどこかから聞こえてくる、あの優しい、くぐもった鳴き声のことだ。

 カジカガエルも、鳴き声しか知らない。家から車で二十分ほどのところにあるブックカフェは、近くを谷川が流れていて、やはり初夏のころ、透明ながら憂いをふくんだ、遠く呼びかけるような声が響く。最初に気づいたときは、カエルとは思わず、かといって虫とも鳥とも違うので、不思議に感じながら、聴き入った。

 夏は、羊山公園がある河岸段丘の崖で、毎年、多くのヒグラシが鳴く。この八月、ひさびさの雨雲に暑さが和らいだある日、崖の脇の坂道を歩いてのぼる途中で、ちょうど気温があがってきて、しんとしていたヒグラシがいっせいに鳴き出し、波状に重なる鋭く柔らかな音に全身をつつまれた。

 秋になると、夜の家を取り巻くのは虫の音で、これはもう、なんの虫とも特定しようのないほどさまざまな種類の大量の鈴の音が、風流というよりはびりびりと鼓膜を震わせる厚みで闇を満たす。暗くなってから徒歩で帰途に就くとき、舗装された中心街や大きな道路沿いではほとんど耳につかないのが、草を刈らない空き地や、うちの庭が近づくと、音量のつまみを回したかのように急に大きくなって、居場所になっているのだな、とわかる。

 わたしの手の届かないところ、目の届かないところ、草むらのなかにも、はるか彼方にも、たくさんのなにかが、たしかに存在していて、それらのいる場所は、わたしのいる場所とつながっている。気配に満ちたひとつながりの空間のなかにいるとき、あの奇妙に眩しい電子的な画面の、唐突な場面転換の繰り返しによる切断の感覚からは、離れていられる。

 空間の広がりは、自分は一人である、という意味での寂しさを感じさせるけれど、それは追い立てられる焦燥による不安とは対照的に、いまいる地面に足裏を落ち着かせる。わたしは、たたずむ。

     *

 吉野せいは、いわきの小作開拓農民にして詩人である夫とともに農業に従事し、夫が戦後、農地解放の活動と詩作に没頭して家を顧みなくなると、田畑の世話と家事、子育て、生活のやりくりのほぼすべてを担った。その夫、三野混沌の死後、夫妻を長く見守ってきた草野心平の「あんたは書かねばならない」の言葉に応えて、七十歳を超えた彼女は筆を執り、『洟をたらした神』を一九七五年に刊行、二年後に世を去る。

 夫は近くの水石山へ好んで登ったが、自分を連れて行ってくれたことはついぞなかった。夫の新盆の折、子や孫たちに誘われて、はじめてその山へ車で訪れたときの、山頂からの眺めを、彼女はこんなふうに記す。

「白い円形の展望台にのぼって、私ははじめて阿武隈山脈の空一線を南から北へゆっくりと眺めた。遠目には濃藍一色にしか見えなかったそれが、実に複雑な起伏、色、線、幾重もの厚み、直、曲、斜線のからみあいもたれあい、光りと影の荘厳な交錯、沈黙の姿に見えていて地底からの深い咆吼、いつもしずかで変わりばえもしない山容の一点一郭に瞳をこらせば、みなぎる活気が一面に溢れているようだ。ここで見れば、山は凄まじく生きているのだ。ここからは見えない山蔭の、その山奥の、その山峡の、その山底の町から村へ、村から字へ、道は幾条にも分かれ分かれて次第に細くなり、やがてくねくねの小径となって、最後の藪蔭の百姓家の軒下に消えて終わるだろう。」(「水石山」)

 その見知らぬ百姓家に、農地改革に奔走する生前の夫が訪ねていく幻の場面へと、記述はつづくのだが、見えるものも見えないものもすべて見通すようにして、俯瞰から細部の拡大へ、途切れることのない目の働きで、「凄まじく生きている」山々をこうして描ききれるのは、彼女がその山地の片隅で、長いあいだ、這いつくばるように農作業に取り組んできたからだろう。自分が苗を植えつけた土も、遠くに見える山の土も、歩きまわる夫の靴底についた土も、ひとつづきのものなのだ。

 それは極度の貧困と労苦をともなう生活だったが、土にまみれていなければ決して味わえない、爽快な風に似た幸福の瞬間もあった。世界のなかにいる、という実感。その孤独と背中合わせの充実を、憧れとしてでも、胸に抱いていたい。