東秩父の山のなかに斜面の土地を買って、通いながら自分たちで木を伐り、家と工房を設計して建て、住みはじめて数十年、子供も独立したいまは、猫と暮らす。食堂店主のOさんと、連れ合いである木工作家のTさんの家に最初に招ばれたのは、わたしが秩父に住んで二年半経った春先のことだった。Oさんに敷地を案内してもらった際、この辺りにギョウジャニンニクが生える、と教えられた。
ギョウジャニンニクを知ったのは、たぶん、このときだと思う。けれども、そのスズランの葉を薄く柔らかくしたような紡錘形の葉を、わたしはよく知っていた。
四十年以上前、父の仕事の都合でチューリッヒに住んでいた小学生のころ、春になると日本企業駐在員の数家族による年中行事があった。車を連ねて、山へ向かい、特になにがあるわけでもない、道路のすぐ脇が森になっているところに駐め、草を分けて木立へ入っていく。下生えのところどころに、スズランに似た葉の群生を見つけては、摘んでいくのだが、毒のあるスズランと間違えないよう、切り口にニラのにおいがするか、たしかめなくてはいけない。子供も大人も、袋いっぱい収穫して、もち帰る。
年に一度、普段は食べられないニラを存分に食べられる日なので、だれもが上機嫌だった。ほかにひとのいない森のなかで、みんなで摘むのは楽しく、小さな子供にとってもやりがいがある。それに、なんとなく、よその土地で示し合わせてこっそりと悪さを働いているような、はしゃいだ気分もあったと思う。実際、私有地ではないとしても、森に自生する植物をそんなふうに集団でむしっていくのが、明らかに現地の良識にもとる行為だったことは否めない。
大人たちは、ニラ、としか呼んでいなかった。日本のニラとは形が全然違うけれど、ニラなのだ、と。ずっとあとになって、ヨーロッパでは「クマニラ」ないし「クマニンニク」を意味する名をもつネギの仲間と知った(Allium ursinum)。日本では英語名から「ラムソン」とも呼ばれる。ギョウジャニンニク(Allium ochotense)に近い種だ。
たとえばいまの日本でも、ある国や地域の出身者が、故郷で馴染んだ味の代用となる食材を発見して、伝えあい、それがひとつのローカル文化になっていく場合があるだろう。あのころ、各企業の人事に応じて次々とメンバーが入れ替わる、チューリッヒの小さな日本人コミュニティのなかで、だれが「ニラ」の採集地を見つけ、どう受け継いでいったのだろうか。
自分の親もふくむ当時の海外駐在員の大人たちの言動には、その歪んだ特権意識や閉鎖性に、居たたまれない思いをさせられることも多かった。けれども、このニラ摘みにかぎっては、現地のマジョリティの目には見えないところで培われるマイナー集団の習性に似つかわしい、なにか活き活きしたものを漂わせている気がした。
秩父地域の農産物直売所で、ギョウジャニンニクの株が売られているのを見つけ、購入して、庭に植えた。一年のほとんどの期間は、どこにあるかもはっきりわからないのだが、三月のはじめになると、まだ枯れ草の目立つ地面から、すらりとした葉が顔を出す。幅の広い葉が何枚か出そろうのを見計らって、摘む。
あの昔のクマニラほどたくさんはないから、そのままおかずにするのではなく、刻んで醤油に浸しておき、数日寝かせて、とろみがついたところを、小鹿野の若いMさん夫妻がつくる身のしまった豆腐にかけて、口に運ぶ。ニラの風味を蒸留したような濃く澄んだ味に、驚くほどの甘みが溶け出し、その甘みのせいもあってか、シナモンを思わせる香りがする。
味わいながら、こういうものは、一年のうちの、ほんのかぎられた季節のあいだだけ食べられるのがちょうどいい、と思う。すると、自分にはあと何回、これを食べる季節がめぐってくるのだろう、という考えが自然と浮かぶ。旬の短い食べものは、そういう連想を導くものなのかもしれない。花がそうであるように。
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ギョウジャニンニクのような山菜だけではなく、いま、わたしは多くの食材を、それぞれ決まった季節のあいだだけ、食べている。秩父に来てから、主に地元で採れた野菜を口にしているからだ。
地域には農協の直売所がいくつかあり、農家の収穫した野菜が並ぶ。大型スーパーや、百貨店の食品売り場には、地場産野菜のコーナーがある。街なかには個人の無人販売所が点在し、時には友人知人から、畑で多く採れたものをいただく。自宅の庭でもほんの少し、野菜や香草を育てているほか、フキ、ミョウガ、ミツバなどは、勝手に生える。
それらは、見るからに瑞々しくて、保ちがよい。夏場に出回る露地物のキュウリやトマトは格段に味が強く、根菜類は、水分が抜けていないためか、火の通りが早い。最盛期のものなら値段も安く、さらに広範囲に流通しない在来種や珍しい品種を見つける楽しみもある。比べると、スーパーに置かれている遠い産地の野菜は、なにか生気がないような、乾いているような感じがして、あまり買わなくなった。
都内に住んでいたときは、たとえば菜の花や栗のような、特定の季節を表すことになっているものが一方にあり、他方、ナスやニンジンやジャガイモはいつもある、という感覚だったけれど、いまは、すべてが特定の季節を待って手に入れるものになった。保存の利くもの、ハウス栽培が盛んなものなら、ある程度は長めに出回るが、それでも、いつもかならずある、というものはない。植物なのだから、当たり前だ。サラダひとつをつくるにも、季節によって、キュウリとルッコラになったり、カブと春菊になったりする。この生活に慣れると、レストランのメニューが年中固定しているのが、奇妙に思えてくる。
直売所の野菜は、値札シールに生産者の氏名が記されている。知人の畑から来るものも、もちろん、だれがつくったか、わかっている。同じホウレンソウ、同じ男爵イモでも、つくるひとによって、形も大きさも、味も違う。土壌も、肥料の工夫も、つくり手の性格や好みも違うのだから、これも、当たり前のことだ。
作物には、すべて季節があり、生産者ごとの個性がある。書くのもためらわれるほど、当然のことなのに、それが大部分のひとには見えない社会に、わたしたちは暮らしている。
真田純子『風景をつくるごはん』は、景観工学を研究する著者が、徳島に赴任したことを契機に、農村の風景はいかにして維持されうるかを、社会、経済、環境といった幅広い分野を横断しながら考えていく。農業そのものが専門でないからこそ、実体験を積み重ねつつ問題のありかを発見していく手つきが、同時に読みものとしての間口の広さにもなっている好著だ。この主題に取り組もうとしたときに、著者が最初にしたことは、やはり、なるべくその土地で生産された食材だけを食べて生活してみる、ということだった。
風景とごはんは、どう結びつくか。たとえば、代々受け継がれてきた棚田や段畑の風景を、美しい、と感じるとして、それはただの画像ではなく、作物が生産される場なのだから、その風景が変質したり消えたりしないためには、まず、そのような田畑で農業を営むことで、安定した生活が送れるようになっていなくてはならない。
ところが、日本の農業政策は、半世紀以上前から、都市住民への食材の「安定供給」を至上命令として、単一栽培と規格化により農産物を工業製品に近づけ、農地を集約化・効率化することを農家に求めつづけていて、農村風景の保全そのものに舵を切ったヨーロッパと異なり、いまもその基本方針を変えていない。
つまり、現状の政策にしたがえば、小規模で非効率な急斜面の田畑は、生きのびられない。それは都市住民の都合を優先した結果なのだから、形のそろった各種の野菜がスーパーにいつも並んでいるのを当然と受けとめ、意識すらしないでいる者は、「昔ながら」の田園風景を消そうとする力の側に立っていることになる。
季節外れの野菜が売られているなら、それはビニールハウスを大量の燃料で温めて人工の季節をつくっているということ。遠くの生産地から来た野菜がたくさんあるなら、それは梱包と輸送に適した同じ形・同じ大きさの品物を選り分けているということだ。つねにピカピカの商品があふれ、新しい品種が宣伝されていて目を惹く、そんな売場づくりの背後に、耕作放棄地や、環境に負担をかける農法や、度を超えた品種開発競争がある。
今日の日本における都市と農村は、「選ぶ—選ばれる」の関係にある、と著者は言う。安い、きれい、おいしい、自慢できる、といった個人の利益を追求する消費者に受け入れられるべく、生産者ばかりが努力しなければならない。システムとして駆動しているがゆえに大多数には気づかれることもないまま、その構造はずっとつづいている。
このような不均衡なシステムを変えるヒントのひとつとして、著者は環境保全の考え方に基づいた、食と農と観光をつなぐイタリアのアグリツーリズムを参照する。それは発想の大本が「稼ぐこと」にあるような観光政策とは違う。食品が「人と自然の共同作業の結果」であるという認識を、生産者と消費者が分かち合うことで、農村の景観が生きつづけるための、都市住民も交えたサイクルを構築しようとするものだ。
ここにいる人々、ここにある景色を大事にするための仕組みを、時間をかけてつくりあげてこそ、本当の意味で「経済はまわる」。地面に目を向けて、その土地、その季節に育つものを眺め、口にすることは、そうした社会へと踏み出すための力を蓄えることでもあるように思う。
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広い風景のなかを歩きたくて、根室に行ってみようと思った。この地域は、フットパスと呼ばれる、草地や森林や海辺を徒歩でめぐるコースが整備されている。根室湾に通じる汽水湖である風蓮湖の周囲や、原生花園にも、散歩道があり、野鳥観察に訪れるひとも多い。風に吹かれて歩けるところが、たくさんありそうだ。
高田勝『ニムオロ原野の片隅から』のことも、頭にあった。一九七二年、野鳥好きの青年だった著者は、前年に結婚した妻とともに、川崎からこの地に移り住んだ。本書には、二人が根室に住みついた最初の日々がつづられている。はじめの一年は海辺の牧場で働き、次いで市街地へ。移住から三年後に、町から離れた森のなか、風蓮湖の近くに山小屋式の家を建て、九人ほどが宿泊できる小さな民宿をはじめた。著者は十数年前に亡くなったけれど、宿は妻のHさんが、いまもつづけている。
Hさんは、庭や、家の付近に育つ植物から、十数種類のジャムをつくり、朝食に出す。ヤマブドウ、ハマナス、コクワ(サルナシ)、ハスカップ、ミヤマナナカマド。本のなかに、牧場の仕事仲間と喜び勇んで摘みに行く様子が描かれていて印象深いフレップ(クサイチゴ)のジャムもある。自家製のパンにつけて食べていると、掃き出し窓の外のデッキに、シマリスやエゾリス、ゴジュウカラやミソサザイが現れる。
食堂にあるテーブルはひとつきりで、この大きな食卓に宿泊客が全員、あるいは代わる代わる集う。本棚には、野鳥に関する資料。長年にわたり、地元根室、道内、さらに全国から、野生の動植物に惹かれる人々がここで飲みながら賑やかに話し、情報を交換してきた。
わたしは、昼は自然観察ツアーや散策に出かけ、夜は、先に挙げた第一作のあと、高田勝がここでの生活を書いた『ある日、原野で』と『ニムオロ原野 風露荘の春秋』を、本棚から借りて読んだ。
読んでいて感じるのは、著者の人懐こさだ。自然にも人間にも、好奇心たっぷりに近づいていく。野鳥好きの仲間たちは、一人が稀少な鳥に出会えば、駆けていってほかの者に教える。独占しない、分け合ったほうが楽しい、そういう心持ちが底に流れていて、温かい。
自然観察ツアーのガイドを担当してくれた根室ネイチャーセンターのSさんは、自然にまつわる活動をはじめたころ、勝さんに本当にお世話になった、と感慨深げに語った。また、Hさんによれば、現在の根室の自然観光に用いられる設備のなかには、野鳥関連の仕事で国外へ行くこともあった夫の土産話から、形になっていったものもあるらしい。
となると、彼の文章から滲み出る、土地の風景と動植物に対するまっすぐな興味、そしてその興味を周囲の人々と分かち合う姿勢は、いまわたしが享受しているこの地域の自然観光の設えと、遠く近く、つながっている、ということか。グループを結成して自らフットパスを整えた酪農家たちにも、そんな気風が共有されているに違いない。収益最優先の人工的な観光地づくりとは対極にある、自然と人間に寄り添った地道な活動の体温を感じながら、わたしはこの地の草むらや、湿地や、川岸や、浜辺を歩いた。
上に引いた高田勝の三冊の本のすべてに、ギョウジャニンニクが登場する。当地では「アイヌネギ」とも呼ばれるそれは、彼にとって、春を告げる食べものだ。まだ原野が雪と氷に閉ざされた三月、春の訪れが近いことをたしかめたいばかりに、ナイフで地面の厚い氷を削って「茶色い鞘に包まれたこうばしいギョウジャニンニクの新芽を見つける」。いよいよ春が来る五月ともなれば、宿の裏の森にたくさん出てくるのを摘み、客の食事に出す。
来年の春、わたしはきっと、秩父の庭のギョウジャニンニクを摘みながら、あの根室の宿の周りに生えるのはいつだろうと思い、Hさんのきびきびした優しさを思うだろう。風蓮湖の夕暮れや、どこかにいるヒグマが立ち去れるよう大きな声で呼びかけるSさんや、木立の向こうからじっとこちらを見つめるエゾシカを思うだろう。
生きた食べものは、こうして土地と土地を結びつけ、それらの場所を星座のようにつないだひとつの地図が、わたしのなかに描かれていく。