島の記憶

笠間直穂子

 家の裏の斜面にある香りのいい白梅が満開を過ぎ、表側の庭にある淡い桃色をした豊後梅が咲き出した。うつむいていたミツマタの灰白色のつぼみが、次第に首をもたげ、黄色みを帯びる。このくらい空気が暖まってくると、時々、八丈島に行きたいな、と思う。

 最初に行ったのは十六年前で、ほとんどなんの予備知識もなかった。非常勤講師としてあちこちの大学に通っていて、忙しくしているうちに春休みが終わりそうになり、とにかく新年度の授業がはじまる前にどこかへ行きたい、できれば別世界のようなところがいい、けれども貯金がない、と思っていたら、留学時代から使っていない航空会社のマイルがあることに気づいた。半端なポイント数に思えたが、調べてみると、閑散期に入る四月あたまの八丈島なら行ける。

 そのときは、なぜそう大きくもない離島にジェット旅客機が離着陸する立派な空港があるのか、考えなかった。行ってみて、この空港が海軍練習飛行場を前身とし、太平洋戦争末期に整備されたものと知った。旅行から戻って数か月後に、八丈島に取材した加藤幸子の小説、『〈島〉に戦争が来た』が刊行された。南洋の島々で敗退した結果、突如「帝都を守る最前線」となって三万人もの兵隊が投入された小さな島を舞台に、飛行場や地下要塞の建設現場で厳しい労働を強いられる朝鮮人の少年と、島に住む少女とが出会う物語だ。外海に身をさらす島々は、国家の暴力が吹き溜まる場所でもある。

 八丈島空港に降りたつと、「フリージア祭り」の最終日とのことで、到着した全員にフリージアの花が一本渡された。もう夕方で、宿へ着く前に日が暮れ、薄暗い坂道を歩く途中、海風に乗ってどこからかフリージアの濃く甘い匂いが漂ってきた。

 毎日、路線バスに乗って、亜熱帯の植物が生い茂る岩場の滝を訪れたり、港を眺めたり、丸い石を積んだ石垣のある集落を歩いたりした。最後の日に、だれもいない広い公園で、風に吹かれていたら、急に眠くなった。よく晴れた日で、東京都心でいえば夏そのものの強い日差しが照りつけるのに、風は凍えるほど冷たくて、その熱さと冷たさの組み合わせが、激しすぎるくらい、猛烈に快い。眠気と心地よさに耐えられず、ピクニック用に設えられたコンクリート製のテーブルに横たわった。目を閉じ、腕で目を覆うと、皮膚に灼けつく日差しと鋭い涼風のコントラストが、いっそう強く感じられた。

 以来、島に惹かれて、いくつかの島を旅したのち、三年前に再度、八丈島を訪れた。前に来たときはもっていなかった四輪の運転免許があるので、車を借り、山にも登るつもりで登山靴を持参した。前回は準備していなくて、山を諦めたのだ。

 ある夕方、市街地から一番遠い温泉のある漁港へ、車を走らせた。ひとけのない港に着いたが、付近に温泉施設らしきものは見当たらない。しばらく探して、港の敷地内の、倉庫だと思っていた年代物のコンクリートの平屋に、小さな木の看板が出ていることに気づいた。入ると、長年温泉水を浴びて茶色く変色した大きな湯舟に、なみなみと湯が満たされて、あふれている。源泉を運ぶ金属のパイプが天井から壁沿いに湯舟のふちまで下り、そこから熱い湯がごぼごぼと大きな音を立てて、絶えず流れこむのだ。せっけんやシャンプーは使用不可なので、香料は匂わず、澄んだ湯の匂いしかしない。ほかに客はおらず、恐ろしい贅沢のような気がしながら、滾々と湧く湯に一人でつかった。

 賑やかな温泉もあった。町の風呂屋のようなところで、地元の常連客のやりとりを聴くのが楽しい。浴槽内で場所を譲り合った年上の女性と、出口でまた会ったので、言葉を交わすと、彼女はわたしと同様、旅行者で、しかも同じ県に住んでいた。まあ、と、ひどく嬉しげに驚いて、少しすがるような目にまでなるのを、不思議に思ったところ、友だちと旅行する計画が、相手の都合で頓挫したのだけど、わたし、どうしても行きたくて、思いきって一人で来ることにしたんです、と言う。六十代だろうか、これまでそんな好き勝手をせずに生きてきたのだろうと思わせる、優しく控えめな顔だちに、不安と決意の瞳がきらめいて、聴きながら胸が熱くなった。

 島には、新しい山と、古い山がある。最後の噴火からまだ三百年あまりの八丈富士は、高さ八五四メートル強。名のとおり、いかにも火山らしい、天辺が水平に切れた円錐形をして、岩がちで木は低く、山頂では火口のふちを一周することができる。観光名所として広い階段が設置されて、のぼりやすい。高木がないので、途中もずっと視界がひらけている。

 小さな島の山は、「本土」の山と違い、のぼっていくと四方を海に囲まれる。海は、さらに、遠くで空とつながるので、周囲が上から下まで青く、虚空に浮いている感覚になる。火口のふちは、灌木に覆われた狭く足場の悪い溶岩の小径で、両側が急斜面になっている。片側の崖は火口内の、迷うと出られなくなるという森。もう片側は空と海の青い空間で、落ちればどこまでも落ちそうな気がする。足がすくむ思いをしながら歩いた。

 三原山のほうは、約七〇〇メートルだが、ここはひとつの山というより、いくつもの峰のある小さな連山で、長い時間をかけて育った深い森がある。緑がかった青色の水面が美しい沼、腹の赤いヤモリが群がる滝壺、岩盤に穿たれた甌穴(ポットホール)が数百メートルも連なる清流、林のなかの明るい湿地など、変化に富む。水をふくんだ植物の生気が、肺を満たしていく。

 山頂へ向かう斜面は、途中まで、狭い階段がつづく。目の粗いコンクリートの直方体を太い鉄棒で固定した、無骨で年季の入った階段で、登山客のためのものとは思えない。いまは舗装道路が整備された海上保安庁の無線鉄塔まで、かつてはこの階段をのぼっていったのだろうか。戦中のこの島が帝都防衛の拠点とされたなら、当然、山頂に近い無線基地は、肝要な場所だったに違いない。ふと、軍服を着て、こんなふうに山をのぼったことがある気がしてくる。南の島、斜面の道、戦争、無線を使う任務……。そうだ、梅崎春生の「桜島」だ、と思った。

 けれども、無線基地を過ぎると、足元は土と枯葉の山道になる。森が途切れて、山頂付近へ出ると、緑の濃い山の連なりが見渡せて、その向こうに海と空が茫洋と広がっている。山頂を過ぎて、いったん坂をくだり、ふたたびあがりきったところに、見晴らしのいい、ちょうど部屋ひとつ分くらいの広さの平たい草地があったので、ここで休憩することにした。朝、街のスーパーで買っておいたおにぎりを食べて、茶を飲む。周囲は山の景色なのに、その景色の全体が、海と空のなかに浮かんでいて、海の匂いの混じる風が吹く。

 上も下もない、青い空間を、わたしのいる山の天辺の小さな草地が、ゆらゆらと漂っているような錯覚に陥る。平衡がとれず、心許ない。そのうち、眠くなってきた。今日は同じコースを歩く登山慣れした様子の男性がいて、何度かすれ違って挨拶を交わしたが、いまはほかにだれもいない。リュックを枕にして、草の上に横になる。目を閉じると、闇のなかでわたしの体だけが宙に浮いている感じがした。

     *

 一度目の八丈島行きの二年後に、沖縄本島を訪れて、那覇の市場のなかにある古本屋に行った。いまは店主が何冊か著書を出していて、読書界では知られた店だと思うけれど、当時は、まだ開店して間もなかった。アーケードの通りから見えるところに何竿かの書棚が並ぶ、とても小さな本屋だが、覗いてみると沖縄関連の本が充実していて、なにか見つかりそうな予感がする。岡谷公二『島 水平線に棲む幻たち』が目に留まった。

 代金を支払ってから、この本を読むのにいい喫茶店が近くにありますか、と聞いてみると、落ち着いていて読書向き、という店を教えてくれたので、そこへ行って、吸いこまれるように読んだ。

 一九八四年刊の『島』は、その時点ですでに三十年にわたり著者が旅してきたという、さまざまな国内の島について記したエッセイだ。その三年前に世に出た『島の精神誌』と、逸話は一部重なるが、後者が旅行記的側面をもちつつも、全体としては学術的な参照を備えた論考の形を採り、また半分はフランスの作家・画家を扱うのに対し、前者は個人的な体験と印象の記述に徹した、親密な筆致の散文集となっている。

 新島、式根島など伊豆諸島の島々から、復帰前の石垣島と西表島、瀬戸内の島々、福江島、上甑島、口永良部島、トカラ列島、種子島。多くはリゾート開発などはじまる前の時代の話だ。港のない島へ、艀で上陸し、宿を探す。宿のない島なら、知人づてで島の住人に頼んでおく。地勢の描き方も、会う人びとの肖像も、陰影が深く、岡谷公二の本のなかでも、特別に好きな一冊になった。

 最初に訪れた島は、まだ忘れ去られた「他界のような」場所だった、一九五〇年代の新島だ。わたしが八丈島でぼんやりと感じたことを、彼は丹念に、繊細に、書いている。

「はじめて知った島という土地は、私にはなにもかも珍しかった。とくに海の近さが私を驚かせた。ちょっと小高いところに登れば、島のどこからでも海が見えた。波音のきこえない場所はほとんどなかった。前浜から遠ざかると、すぐに裏側の羽伏浦(はぶしがうら)の激浪の音がひびいてきた。たとえ海が見えず、波音がきこえなくても、風や光の中に、はっきりと海が存在した。海は、密偵のようにあらゆる場所に入りこみ、一切を支配していた。」

 さらに、新島のあと、式根島、神津島を回ってみて、三つの島が「地形も、景観も、人々の暮し振りも」異なり、まるで「それぞれが小さな国のよう」だと感じた彼は、それがまさに、島が海に囲まれているがゆえであることに思いいたる。

「なるほど本土の町や村にも特色はある。しかし本土では、少なくとも旅行者の眼には、一つの町や村が正確にどこではじまり、どこで終わるのかよく分からない。[…]それに反し、島では、陸は海で[ママ]はじまるところで終わる。この明確さが、島の個性的な顔立ちをきわ立たせる。島に一歩を印するとき、私たちは、未知の、新しい世界に歩み入るのである。」

 けれども、その未知の世界を、ただ好奇のまなざしで傍観する、というような態度を、無論、岡谷公二はとらない。冬の利島で、暴風が五日経っても止まず、生活用品が不足しはじめて、一見平静な島民も「心なしか、表情に焦燥の色が滲むように」見えてきたとき、彼は思う。

「私は、島の孤立ということを思わずにはいられなかった。なるほど島々は、小さな国々にはちがいない。しかし島の大小、本土からの距離、地形や風景、風俗習慣の目をひく相違にもかかわらず、孤立という点では、島々はひとつである。それが島の基本条件であり、宿命であり、不治の病なのだ。それがすべてを支配し、島の生活の一切に濃い影を落としている。」

 そして、こうつづける。

「たえずつきまとう閉塞感、疎外感、それと裏腹の強い自恃や誇り、外の世界に対する憧憬、過度の敏感さ、過剰な期待、そしてその期待が裏切られたときの失望の深さ……だが島とは、私たち自身のことではないだろうか?」

 海によって隔絶された小宇宙であるからこそ、島は、わたしたちがなんであるかを、くっきりと照らし出す。島にいると、不安も、陶酔も、濃すぎる感じがあるのは、そのせいなのだろうか。だからわたしはいま、島を思うのだろうか。