あかーん

篠原恒木

おれは急いでいたのでタクシーに乗った。日が暮れた頃だった。
目黒の権之助坂に差し掛かったとき、その事件は起きた。
おれが座っている後部座席の尻のそばで、携帯電話が鳴ったのだ。聞き慣れない着信音だったので、おれの携帯電話ではない。誰かが、おそらくはおれのすぐ前に乗った客が、座席に置き忘れたものだろう。
「運転手さん、携帯電話が鳴っているのですが、おれのものじゃないんですよ。忘れ物だと思うのですが」
「ああ、さっきまで乗っていた男性のお客さんの携帯かなあ」
携帯電話は鳴り止まない。もう十回以上はコールしている。鳴り止んだら運転手さんに渡そうと、おれはその携帯を手に持った。ところが電話は切れない。ピロピロ、ピロピロとしつこく鳴り続けている。そうだ、これはきっと落とし主が忘れ物に気付き、自分の携帯に電話をかけているのだろう、いや、そうに違いないとおれは判断した。

おれも携帯電話をいろいろな場所に置き忘れるが、そんなときはとりあえず別の電話からオノレの携帯にかけて、
「頼むから誰か電話に出てくれ。そしておれの電話はいまどこにあるのか教えてほしい」
と、すがるような思いで親切な誰かがおれのコールに出てくれるのを願った経験が何度かある。

この執拗なピロピロ、ピロピロ着信音は、この携帯の持ち主が必死になってかけているに違いない。自分の経験上、そうおれは確信した。ここは出てあげるべきなのだろう。
だが、そのとき、着信音は鳴り止んだ。ほっとしたおれは運転手さんにその携帯電話を渡そうと身を乗り出した。ところがその瞬間、またピロピロ、ピロピロと鳴り出すではないか。
「ははあ、これは携帯を置き忘れて相当焦っているな」
おれは仕方なく電話に出ることにした。声が聞こえた。
「もしもし」
電話の声は女性だった。運転手さんによれば「さっき乗っていた客」は男性だったはずではないか。
「あ……はい?」
女性はおれの戸惑う声にも構わず、勝手に喋り出した。
「あっ、あなた? まだ大阪でしょ?」
おれはすっかり虚を突かれてしまった。大阪? ここは東京の目黒だ。そして大変申し訳ないが、おれはあなたにとっての「あなた」ではない。
「ええと、そのぉ……」
おれはそう口ごもりながら、灰色の脳細胞を活性化させて、次の仮説を導き出した。

1.携帯電話を置き忘れたのは、おれの前に乗った男性客であろう。
2.その男性の携帯に女性が電話をかけてきた。
3.女性は携帯の持ち主である男性と親しい。妻もしくはそれ以外の深い仲だ。

残念なことに、この時点ではこれ以上の仮説は思い浮かばなかった。おれの脳細胞の限界である。しかし、電話をここで切るわけにもいかない。おれはおずおずと切り出した。
「あのぉ、いま私が出ているこの電話、私のモノではないんです。タクシーの座席で鳴っていたものですから、つい出てしまったわけで」
相手の女性は、しばし沈黙した。
「そうなのですか。大阪のかたですか?」
大阪。そうだ、確かに大阪と言っていた。おれの脳細胞が再び活性化されてきて、さらなる仮説を組み立て始めた。

4.携帯の持ち主である男性は大阪に滞在していることになっている。
5.その男性は、妻もしくは深い仲の女性に対して4という嘘をついた。
6.だが男性は「大阪へ行く」と言っておきながら、ちゃっかり東京に居残っている。
7.そしていまおれが話している女性は、その男性の妻に違いない。どうやら深い仲の女性ではなさそうだ。
8.なぜなら深い女性とはこの東京でいまヨロシクやっている最中で、その女性に嘘をつく必要はない。男が嘘をつかなければならないのは妻だ。

おれはここまで推理して、完全に狼狽してしまった。なんだか松本清張のミステリ小説のような展開ではないか。今度はおれが沈黙する番だ。電話からは女性の声が畳みかけるように聞こえてきた。
「失礼ですが、そちらさまは大阪のどこにいらっしゃるのでしょうか」
おれの背筋から冷たい汗が噴き出した。どうしよう。
「せやねん。大阪でっせ、正味なハナシ。ワシはいま北新地やで。なんでやねん」
そんな台詞も頭をかすめたが、あとあと面倒なコトに巻き込まれそうな気がした。いや、もうすでに巻き込まれているやん。わて、ホンマによう言わんわ。

インチキ関西弁での思考は放棄して、おれは正直なところを話すことにした。
「あのですね、こちらは大阪ではなく、東京です。東京でタクシーに乗っている者です」
おれの言葉を聞いて、女性はしばらく絶句していたが、やがて口を開いた。
「昨日の朝、二泊で大阪へ行くって……。いまそちらは東京のどこですか?」
「ええと、ここは……目黒、かなぁ」
「目黒?」
「はい、目黒ですね」
「そうなんですか……」
そう振り絞るような声を出して、女性からの電話は突然切れた。おれにとってもこれ以上の会話はスリルとサスペンスに満ち溢れそうだったので、このガチャ切りは有難いことだったが、苦い後味が残った。
おれは運転手さんに携帯電話を渡し、大きなため息をついた。
「大阪って聞こえましたが」
携帯を受け取った運転手さんはニヤリと笑っておれに言った。
「そうなんです。参りました」

なぜおれがこんなにモヤモヤした気分にならなければいけないのだろう。電話に出なければよかったのだ。しかし持ち主からの電話だと思い込んでいたので、つい出てしまっただけである。小さな親切、いや、大きなお世話が仇となってしまった。
おれは反省しながらタクシーを降り、目的地まで歩を進めた。男は無事に携帯を取り戻せるだろうか。いや、そんなのは些細なことだ。携帯を置き忘れた男とその妻は、今後どうなるのだろう。夫は妻の激しい追及をうまくかわせるだろうか。

「ただいまー。大阪出張、疲れたぁ。これ、おみやげ」
男はそう言って、大阪名物のクッキー「道頓堀の恋人」を妻に渡す。もちろん大阪で買ってきたものではない。帰宅途中に東京駅の「諸国ご当地プラザ」へ寄って、ササッと買ったアリバイ工作のクッキーだ。レシートはその場で捨てた。おれもよくそうしている。いや、してないしてない。それにしても「道頓堀の恋人」はよくない。男が逢っていたのは「目黒の恋人」なのだから。
妻はおみやげには目もくれず、唐突に切り出す。
「あなた、昨日の晩はどこにいたの?」
「大阪だよ、もちろん」
「嘘つき! 目黒でしょ」
それを聞いた夫の眼が虚空をさまよう。
ああ、想像するだけで胃がせり上がって来る。

平和だった家庭に亀裂が入るのだ。すべてはおれが悪いのか。
「あかーん。あかーん。知らんがな、もう」
と、おれは独り言を呟きながら、自分の携帯電話がバッグの中にちゃんと入っているかどうかを確かめた。