カタオカさんとおれ

篠原恒木

片岡義男さんについて書こう。

カタオカさんは物知りだ。
いろんなことを知っている。

雨の日におれはL.L.Beanのレインブーツを履いていたが、タイルが敷かれた地面を歩くとツルツル滑ることをカタオカさんに訴えたら、こう言った。
「それはそうだよ。そのブーツはハンティングをするのに沼地へ入るときのものだから」
「は?」
「音も立てずに沼地を進むためのブーツさ。獲物に気付かれないようにね。防水性には優れているけど、都会の道路には向いていない」
ううむ、知らなかった。じつにすべらない話ではないか。

「アメーラトマトってあるだろ」
「ありますね。アメーラってイタリア語ですか。トマトだけに」
「アメーラは静岡地方の言葉で『甘いだろ』という意味だよ」
「知らなかった。てっきり外国語だとばかり思っていました。オメーラ、タダじゃおかねぇ、とは日頃よく言いますが」
これは見事にすべった。

先日出版されたカタオカさん著の『僕は珈琲』のなかでも書かれているが、「アメリカン・コーヒー」の由来は、第二次世界大戦でアメリカでの珈琲豆が不足して、節約のため薄い珈琲を淹れたことが始まりらしい。カタオカさんは回想する。
「僕はアメリカン、とよく喫茶店でオーダーしていた人がいたよなぁ」
ううむ、これも薄味ではない、じつに濃い内容の話ではないか。

だが、カタオカさんは物を知らない。
「えっ、そんなことも知らないの?」というケースがよくある。

居酒屋の壁一面に貼られたメニューの短冊をじっと見つめながら、カタオカさんは呟いた。
「いぶりがっこ」
「食べますか、いぶりがっこ」
「いぶりがっこって何?」
「知らないんですか」
「知らない」
「大根を燻った漬物です」
「だからいぶりなのか。がっこって何?」
「学校のことです」
「本当かよ」
「嘘です。秋田地方で漬物のことをがっこと言うのではないか、と思います」
「旨いの?」
「クリーム・チーズをディップにして食べたりすると旨いです」
「ふーん」
カタオカさんはメモ帳とペンを取り出し、大きな文字でゆっくりと「いぶりがっこ」と書いた。それがおれの目にはとても可愛らしく見えた。
ほどなくして「いぶりがっこ」が登場する小説を発表したのだから、作家というヒトは恐ろしい。

「安保という漢字が読めなかったんだ」
「アンポ? あの日米安全保障条約のアンポですか」
「もちろん音としては認識していたよ。周りがみんなアンポ、アンポと言っていたからね。だけど、どう書くかについては知らなかった。立看板に『安保反対』などと書かれていたけれど、ヤスホとは何のことだろうと思っていた」
「そういうのをアンポンタンと言うのです」

『僕は珈琲』のなかでも、これと同じようなことが書かれている。「外為」という言葉についての話だ。クスリと笑うけれど、言われてみれば確かにそうだ、とおれは思ってしまった。安全保障条約を縮めてアンポと呼ぶのはいささか乱暴のような気がしてくる。ましてや「ガイタメ」なんて、考えてみればヒドい略語ではないか。

日本人はこういった略語が大好きだが、カタオカさんにとっては嫌な感じがするらしい。ちなみに「パソコン」「テレビ」「スマホ」「コンビニ」とはどうしても書けないと言う。「PC」「TV」「スマートフォン」と書く。「コンビニ」に至っては「人々がコンビニ、と呼んでいる店」と書いていた。これは略語に対する凄まじい嫌悪、いや、憎悪ではないか。
「ではラジオはどうなんです? レディオとは書かないでしょう」
「ラジオはラジオだね。日本語として」
確かにラジオは略語ではない。カタオカさんは重度の略語アレルギーなのだろう。

カタオカさんは怒らない。
怒ったことを見たことがない。
「なぜ怒らないのですか」
「怒ってもしょうがないだろう。疲れるだけだよ」
「でも怒ってヒトを怒鳴りつけたことも一度や二度はあるでしょう?」
カタオカさんはしばらく考えて、こう言った。
「昔、書いた原稿を編集者が失くしてしまったことがあったなあ。電話がかかってきたんだ」
「編集者はなんと言ったのですか?」
「市ヶ谷の大日本印刷に原稿を届けに向かう途中で、小脇に抱えていた原稿の束を一枚残らず外堀に落としてしまいました、と言ったんだよ」
「ええっ、あの市ヶ谷駅の脇にある川のようなところですよね。つまりはすべての原稿を水没させてしまったと」
「そうなんだよ。きっとバサバサッ、ヒラヒラと紙が舞って外堀に落下したんだろう。まだ原稿用紙に手書きの頃だったな」
「それはいくらなんでも激怒したでしょう。原稿のコピーは?」
「とってないよ」
「ひゃあ、おれだったら怒鳴り散らしますよ。当然怒りましたよね?」
「いやぁ……怒るもなにも、呆れたよね」
カタオカさんは笑いながらそう言った。そのあとの書き直し作業については訊くのが怖かったので、おれはそこで絶句してしまった。

怒らないからといって、ナメてはいけない。
カタオカさんは優しい顔を保ちながら穏やかな声で、本質的なひと言を口にする。そのひと言はかなり怖い。ひと言の内容はここでは書けない。何通りかのパターンがある。鋭い刃物のようなひと言だ。おれはよせばいいのに、
「もうちょっと嚙み砕いて言うと、こういうことですか?」
と尋ねてしまうのだが、ブラック・カタオカは、
「そうなんだよ」
と言って、微笑みを浮かべる。こういうときは怖い。怒らないのに怖いのだ。おれのように声を荒げて罵詈雑言をまくしたてる奴は、臆病なワンコと同じなのだ。弱い犬ほどよく吠える。悪い奴ほどよく眠るのだ。

カタオカさんは裏切る。
裏切り者なのだ。
おれがあらかじめイメージしていたような原稿を書いてくれない。いつも裏切られる。
「もっとこのあたりを詳しく書いてくださいよぉ」
「いやぁ……ここはこれ以上書けないよ」
いくら誘っても、こちらが思っているイメージに近づいてくれないのだ。だからおれはある時からこちら側に誘うのをやめた。カタオカさんのイメージにおれのほうから近づこうと、考え方を変えたのだ。
だから最新刊の『僕は珈琲』でも、事情の許す範囲の限度ギリギリまでカタオカさんの文章と寄り添う写真を入れた。書き下ろしのエッセイ集に写真を散りばめるのは邪道かもしれない。「描写のカタオカ」と呼ばれている作家が丹念に描写している人やモノの写真を文章のすぐそばに挿し込むのは失礼にあたるのかもしれない。だが、あれがおれなりの「近づき方」なのだ。

原稿を読み返すと、おれは思う。
カタオカさんは「何を書くか」ではなくて「何を書かないか」に心を砕いているのではないかと思うのだ。おれが書いてほしいとイメージしていたのは「書かないほうがいい」部分ばかりなのかもしれない。そうなのだ。それを書き足したら、冗長で散漫な文章になってしまうのだ。

冗長で散漫な文章はここで終わる。