四月はボブとエリックの日々だった。僕とエリックではない。ボブとエリックだ。
ポール・サイモンに『僕とフリオと校庭で』という曲があったが、あの歌がラジオで初めて流れたとき、おれは『僕と不良と校庭で』だとばかり思っていた。ずいぶんと剣呑な歌だと感じたが、曲を紹介した当時のディスク・ジョッキーの発音が悪かったに違いない。いや、こんなことは今回の話とまったく関係がなかった。
ボブ・ディランの東京公演は四回行った。エリック・クラプトンの東京公演には二回足を運んだ。だから四月はボブとエリックの日々だったのだ。雇用延長、低収入の身で馬鹿なカネの使い方だと自分でも思う。妻にバレたらエライことになる。少ないへそくりは底をついた。
でも、もういいんだ、とも開き直っている。おれだっていつ何が起こるかわからない。少しでも観ておきたい、聴いておきたい、と思ったら、その欲望には従うべきなのだ、もうおれだってそういうトシなのだ。文句あっか。文句のあるやつは前に出て来い。妻が真っ先に出て来るだろう。彼女が前に出て来ると怖い。だからナイショなのだ。
ボブのライヴは有明の東京ガーデンシアターで行なわれた。素晴らしいコンサート・ホールだった。アクセスは不便だが仕方ない。へそくりがなくなったので、ツアー・グッズは買わなかった。おれは思うのだが、ヒトはあんなにイケていないTシャツやキャップを買ってどうするのだろう。まさか日常であれを着るのか。それとも記念品感覚なのだろうか。おそらくは後者だと信じたい。おれはライヴに行くと、記念品代わりにいつもパンフレットを購入するのだが、最近のボブのツアーはパンフレットを販売していない。GOLDシートのチケット購入者には特典として「記念品」が用意されていたので楽しみにしていたら、安っぽいトート・バッグとその中にいろいろと細々したモノが入っていただけなので、少しがっかりした。いま、おれのもとにはそのトート・バッグと中身のおもちゃが四セットある。四回行ったからだ。同じものを四セットも要らないのだが、貰えるものは貰っておこう。
席は四回ともステージ中央で前から二列目だった。僥倖ではないか。おれは席に座って間近に迫るステージを眺めながら、高校時代を思い出していた。ボブ初来日公演のときのことだ。おれは始発電車に乗ってプレイガイドの行列に並んでチケットを買ったのだ。インターネットなんて影も形もなかった頃だ。WEB予約などあるはずもない。少ない小遣いを貯めて足を運んだ初公演の会場は日本武道館だった。高校生のおれは二階席の座席に座って、ライヴが始まるのを待っているときにフト思ったものだった。
「おれはいまボブ・ディランと同じ屋根の下にいるのだ」
そう考えたら、感動、感激のあまり、おしっこがチビりそうになったのだ。ライヴが始まると、はるか遠くのステージにいるボブは豆粒ほどの大きさ、いや、小ささだったが、それを観たら鳥肌が立って涙が出た。ところがどうだ、今のおれは。
「お、いい席じゃん。嬉しや嬉しや」
「それにしても三階席がガラガラだなぁ。チケット代が高すぎたせいかな」
という、まことにもって味気ない感想しか胸に迫ってこない。
「これを堕落と呼ぶのだ」
と、おれは自分を戒めた。これでは正真正銘のすれっからしではないか。あの瑞々しい感性、若々しいミーハー気分はどこへ行ってしまったのだ。
四公演とも開演時刻きっかりにボブは現れた。二分前に登場したこともある。彼と待ち合わせをするときは十分前に到着していないと不機嫌になるだろう。以後気をつけよう。バンド・メンバーたちが登場する寸前にはいつもベートーヴェンの交響曲第九番の第一楽章が十秒ほど流れた。シブい。この選曲からしてボブは観客を煙に巻く。ステージにボブたちが現われても、客電は完全に落ちない。これでは満員とは言い難い客席の様子がボブの目から見えてしまうではないか。機嫌を損ねてそのまま帰ってしまったらどうしよう、と不安になったが、おれの目の前に現れたボブはすぐピアノの前に中腰で陣取った。グランド・ピアノが客席の正面を向いていたので、おれの座席からはボブの顔しか見えなかった。ボブが気まぐれを起こして、セッティングしてあったマイクの位置を下げた日があったが、その日はボブの口元がピアノで隠れてしまった。近距離でありながら顔の上半分しか拝めなかったのが悲しかったが、仕方ない。
四公演すべてのライヴ・レポートを書いてもいいのだが、退屈な文章になるのでやめておく。おれには音楽的な素養もない。だが、そのかわり、以下にボブがライヴでおれに伝えたかったことを演奏曲順に並べておこう。これがボブからおれへの手紙だ。十七曲分ある。
言いたいことはさほどないんだ
おれは砂だらけの土手に座って 川の流れを見つめている
おまえがおまえの道を行くのなら おれはおれの道を行く
おれはギリギリまで進む 最後までまっすぐ行くぞ
失われたものすべてが再びかたちになるところまで突き進むのだ
おれは一番だ 唯一無二だ ベストな人間のなかでラストの一人だ
残りの奴らは埋めてしまえばいい
いつかすべては美しく輝くだろう おれが傑作を描くときは
おれの魂は苦しんでいる おれの心は戦場のようだ
おれは誰かを生き返らせたい 言っている意味は分かるよな
今宵、おれはきみの恋人になるのさ
おれはすべての希望を捨て去り ルビコン川を渡った
一日中働いて おれは甘いご褒美を貰う
おまえと二人きりになることさ
おれは自分が正しいと思うこと、ベストだと思うことをしている
おまえがイギリスやフランスの大使だろうと
ギャンブル好きだろうと ダンスが好きだろうと
ヘビー級の世界チャンピオンだろうと
おまえは誰かに仕えなければならない
まあ、それは悪魔かもしれないし 神かもしれないが
おまえは誰かに仕えなければならない
おれは絶望の長い道を旅してきた
ほかの旅人とは誰一人として会わなかった
おれは決めた あなたにこの身を捧げることを
そう、愛は愛だ 消え去るものじゃない
そう、愛は愛だ 消え去るものじゃない
おれは天命より長生きしてしまった
おれはいま身軽な旅をしている ゆっくりとhomeに向かっている
さらばジミー・リード さよなら おやすみ
おれはあなたの王冠に宝石をつけ 明かりを消すよ
おれはぶらさがっている 人間の現実性というバランスのなかで
落ちていくスズメのように ひとつひとつの砂粒のように
以上が、ボブがおれに伝えたかったことのすべてだ。おれはありがたくそれらを頂戴した。いや、そうではない、それはおまえの主観に過ぎない、という意見もあるだろうが、音楽や文学、絵画、映画などを客観的に判断してどうするのだ。主観のみで味わうべきだろう。そして、おれはこれらのディランの言葉を「愛、裏切り、信仰、苦悩、老い、傲慢、欺瞞、諦観、死、望郷」などというイディオムの羅列では語りたくない。あ、語ってしまった。いけないいけない、もともとボブの歌にメッセージなどはないのだから。
演奏は緊張感あふれるものだった。ボブの弾くピアノは相変わらず滅茶苦茶、いや、気まぐれだった。ギターやベースはボブの周りを取り囲み、必死に彼の手元を覗き込み、即興でフレーズを弾いていた。いつコード・チェンジをするのかはボブの気分次第だ。十四曲目には「カヴァー曲」を演奏するのが決まりで、ずっとThat Old Black Magicをプレイしていたのだが、東京公演ではカヴァー曲が日によってコロコロと変わった。これは嬉しいプレゼントだった。四月十二日は、なんとグレイトフル・デッドのTruckin’を初カヴァーしてくれた。おれは興奮してその日のライヴが終わり、外へ出てスマートフォンを見たら、
「今夜、ボブ・ディランは東京公演で、彼のキャリアでも初披露となる曲を生演奏した」
と、英語のニュース・サイトで速報が配信されていた。さすがはノーベル文学賞受賞者、セット・リストが一曲変わっただけで国際的なニュースになるのだと感心してしまった。十四日のカヴァー曲は同じくデッドのBrokedown Palaceになり、翌日の十五日にはバディ・ホリーのNot Fade Awayへと変わった。カヴァー曲のコーナーになると、バンド・メンバーがボブの周りに集まり、短い打ち合わせをして演奏が始まっていた。どうやら楽屋では何の曲を演るかは決めておらず、候補曲だけ挙げておいて、ステージ上のその場の気分で決めていたようだ。じつにボブらしい。最近のツアーではセット・リストが固定されていて、サプライズはなしというパターンが多かったので、これには胸がときめいた。もっとも昔のライヴでは、日によってセット・リストが半分近く変わる時代もあったので、それに比べれば大したことはないのだが、予想外のサーヴィスだった。
機嫌のいい日には「サンキュー」という言葉が二回ほどボブの口から出て来る。これだけで観客は大騒ぎだ。
「あのボブが喋った!」
という反応だ。今回のある日の公演では「サンキュー、ベイビー」と言ってくれた。
「おお、ベイビーをつけてくれた!」
またもやおれを含む観客席は大盛り上がりだ。ファンはみんなボブのしもべなのだ。
すべての演奏が終わると、ボブはピアノから離れて全身を見せ、お得意の仁王立ちをして観客席に向かい合う。客席はどの日も満員にならなかったのに、彼はクサらず、同じ曲でもアレンジをその日によって変えて最後まで演奏してくれた。素晴らしい四公演だった。
ボブが終わると、おれの四月はすぐさまエリックの日々になった。と言っても、エリック・クラプトンは六公演のうち二回しか行っていない。これには我が経済的諸事情のほかに理由がある。エリックはここ数年、
「これが最後の来日になるだろう」
と、いつも匂わせていたのに、また来日するので、おれは「来ない来ない詐欺」といつからか秘かに思っていたのだ。
「そっちが来ないと言うのなら、こっちも行かないぞ。気が変わった、やっぱり来ると言っても行くものか」
そう心に決めるおれなのだが、「来る」と言われれば、ついつい足を運んでしまうのであった。こうしておれはずっとエリックの来日公演に付き合っている。酒でボロボロ状態のときもあった。ギターが彼しかいないというバンド編成のときもあった。ヴェルサーチやアルマーニに身を包んで、バブルのセレブリティを気取っていたときもあった。ジョージ・ハリソンと一緒に来て「ライヴを途中でやめてしまったミュージシャン」と「とにかくやり続けてきたミュージシャン」の歴然とした違いを見せつけてくれたときもあった。かと思うと、デレク・トラックスやドイル・プラムホールⅡを伴って来日したときは、彼らのギターに任せて、自分はかなりサボり気味というときもあった。つまりおれはエリックが病めるときも健やかなるときも、せっせと彼のステージに通っていたのだ。ひと言でいえば「ファン」なのである。今回も観に行くしかないではないか。
おれがチケットを手に入れた日本武道館の四月十八日と二十四日の二公演は両日とも超満員だった。運よくアリーナの前列を確保できたおれはエリックを間近で観ることができた。高校生のときに、二階席の柱で遮られた席から体を斜めにしてはるか遠いステージを覗き込んでいたときとは雲泥の差である。だが、おれはトキメいていない自分に気が付いた。ボブのときと同じである。ここでもおれはすれっからしだった。自分が徹底的にいやな奴になったような気分になった。
エリックのステージについて書くことはあまりない。「よかった」と思える熟練のライヴだった。十八日のセットで披露したエレクトリックのLaylaが、二十四日にはCocaineに変わっていたが、基本的には安定のメニューだ。Laylaは驚くほどテンポを落として演奏していたので、引っ込めて正解だったような気もする。最近次々と亡くなってしまったジェフ・ベックやゲイリー・ブルッカ―の盟友たちに捧げる曲も披露した。ジョージ・ハリソンもかなり前に他界したが、かつてそのジョージがエリックに提供したBadgeも演奏した。
そして、おれがこのBadgeという曲で今回初めて気づいたことがあった。曲のタイトルは、ジョージが歌詞をメモに書き留めているものをエリックが見たときに「Bridge」(曲の繋ぎの部分)と手書きされたものを「Badge」と誤読したのが由来だという。だから発表当時のヴァージョンではバッジのことなど歌詞には登場しない。「バッジ」はタイトルだけで、バッジそのものとはまったく無関係な歌だった。だが、現在ではこのBadgeは発表当時にはなかった新たな歌詞が加えられている。それは最終パートの次のフレーズである。
Where is my badge?
Where is my badge?
おれのバッジはどこだ?
おれのバッジはどこへ行ったんだ?
この新しい歌詞がいつから足されるようになったのか、はっきりとした記憶はない。ジョージが死去したのは二〇〇一年だが、ひょっとしたらその頃からではないだろうか。いや、もっと前から歌詞は書き加えられていたような気もする。二〇〇一年十一月にジョージが亡くなったニュースが流れた当日も、エリックは日本武道館でこのBadgeを演奏した。「ジョージへ」と、ひと言だけマイクに向かって話してから演奏を始めたのは覚えているが、新しい歌詞のことは記憶にない。だが、ジェフ・ベックやゲイリー・ブルッカ―、J.J.ケイル、ボブ・マーリーなどの故人に捧げるかのように曲を演奏していた今回の彼を観るにつけ、このbadgeとはジョージ・ハリソンのことではないのだろうか、と初めておれは思ったわけである。「おれのジョージはどこへ行ったんだ?」と、エリックは繰り返し歌っていたのだ。確信はないが、きっとそうなのだ。
柄にもなくおれはセンティメンタルな気分になって武道館をあとにした。だが、おれには切迫したモンダイが生じていた。かねがない。高額ライヴに足繁く通ったため、へそくりが完全に底をついた。帰りの電車の中でおれはボブが書き下ろしたThe Philosophy of Modern Songという新刊本のページをめくった。そこにはこう書いてあった。
かねで買えるものは重要ではない。
あなたが椅子をいくつ持っていようと、そこへ乗せる尻はひとつしかないのだ。
いや、ボブさん、その通りなんですけどね、おれは一公演につき椅子をひとつしか買っていないのですよ。そのひとつしかない椅子にひとつの尻を乗っけただけで、素寒貧になったわけでして。え? 椅子を六つも買うからだ、ですって? そんなロクでもないことは言わないでください。