今月も殆ど何も書き留められぬまま、一ヶ月が経ってしまいました。庭の芝刈りすら未だ出来ていないのですが、その理由はまた後日書くことにします。来月末にはさすがに芝刈りも終わっているでしょう。3年前、各地の紛争を調べながら「自画像」を書いていて、これから先、平和が続くよう、祈りながら様々な国歌をパッチワークしていました。しかし、ウクライナもスーダンも、アフガニスタンもシリアもイエメンもあの頃のまま紛争が続いているか、寧ろ状況はずっと悪化しているのを見るにつけ、その裏に無数の市民の命が吊り下がっていることを思い、ただ言葉を失うばかりです。
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4月某日 ミラノ自宅
フランチェスコ・シカーリに、ダンテ「新生」による小さな歌曲を送る。ダンテ協会のプロジェクトの一環で、3月に入籍したマリア・エレオノーラとアルフォンソの結婚祝いにかこつけて書いた。「Si lungiamente m’ha tenuto Amore (永きにわたり、わたしを繋ぎとめていた情愛について)」は、失ったベアトリーチェへの愛を謳う悲劇的なテキストでもあるけれど、その昇華した愛は無限な別世界を啓いていて、どこまでも清澄な姿にわたしたちは深く心を動かされる。自分にあてがわれたこのソネットが結婚祝に見合うか当初は逡巡したが、純化された愛情の表現をそのまま受け容れることにして、彼らへの小さなオマージュとなった。
息抜きに小さな歌曲を書くのは楽しい。ちょうど1年前、アルフォンソがリストによる「山への別れ」を弾き、そこでマリア・エレオノーラが譜めくりしていたのを思い出し、この小歌曲にもリストを忍び込ませた。
4月某日 ミラノ自宅
心を動かす音楽かどうかが、作品の価値基準となり得るか否かについて、ふと考える。直截に心に訴える作品は危険であるか。主観を厳密に排除し、作品意義、技術を客観的に判断することでより公平な判断が可能だとすれば、早晩、さまざまな芸術作品コンクールは人工知能に任せられるようになるかもしれない。
先の世界大戦中、大衆煽動に際し幅広く音楽が利用された事実は、際限なく顧みられるなかで、その後の現代音楽の方向付けに大きな影響を与えた。
誰にでも理解し易い傾向は、寧ろ危険とさえ認識されることすらあった。テレジン収容所のオーケストラや、フルトヴェングラーのワーグナーや第9など、演奏者の本意とは別に音楽を利用した反省から、新音楽たるは危険な主観を排し、技術的、論理的、倫理的に音楽を展開させることから、音楽の未来を託そうともした。あれから80年を経て、我々は何を考えているのか。
ミラノのサンマルコ教会で、エマヌエラの弾く「世の終りのための四重奏」を聴いた。壮麗な教会でメシアンを聴くと、演奏会場とは全く違った宗教儀礼に近い体験になる。闇を映す天窓から音が降り注ぎ、鈍く輝き、ゆらめく燭台の焔の向こうで、音は独特の陰影を湛える。
メシアンがゲルリッツ収容所で作曲し、収容されていたユダヤ人音楽家たちが初演したと説明すると、「きっと彼らには、特別な”役”が与えられていたのだろうな」と息子が言った。「でなければ、疾うに皆殺しにされていたでしょう」。
今日は夕方家族で連れ立って自転車で出かけ、演奏会前、慌てて教会裏のピザ屋で腹ごしらえをする。素朴なピザで美味であった。フィンランド北大西洋条約機構加盟完了。
4月某日 ミラノ自宅
最近、息子が学校の音楽史の授業でやっているグレゴリア聖歌史について、しばしば質問を受けるようになった。尤も、無学が祟って満足な答えもままならず、息子を落胆させるばかりである。
折角なので、今年は息子と一緒にヴァチカンで執り行われる復活祭ミサのテレビ中継を見た。国営放送では、何度となくウクライナ侵攻について言及がなされ、今年はロシア正教会やウクライナ正教会も何度か話題にのぼっていた。文字通り、今年は戦争と平和を象徴する復活祭であった。
それまで眠そうにテレビを見ていた息子が、あっと声を上げて思わず色めき立ったのは、合唱隊がグローリアを歌いだしたときだ。それは彼が一昨年に受けていた音楽院の合唱の遠隔授業で、毎週ずっとコンピュータに向かって声を張り上げていた、あの聖歌である。
息子の部屋から、一年中毎週決まった時間に同じ旋律を繰返し歌っているのが聴こえていて、covidの影を曳きずるそこはかとなく悲哀を湛える聖歌が、賑々しく絢爛豪華なヴァチカンから壮麗に流れてくるのは、何とも不思議な心地を呼び覚ます。
4月某日 ミラノ自宅
レッスンに来たトンマーゾは、才能あふれるコントラバス奏者だが、普段からオーケストラで弾いているからか、演奏者に気を遣いすぎて、素の自分を曝け出すのを躊躇う傾向がある。尤も、誰でも自分の身体の裡にある音楽を外に掻きだすのは容易なことではない。自分の前面に音符を投影し、その各音符に焦点を合わせながら振って貰うと随分違うが、なにか肝心なものが音楽に届いていない気がする。
試しに眼前ぎりぎりまで音符を近づけ、網目の向こうに見える風景に焦点を合わせてもらう。そうして符尾の網目の向こうに流れる、陽光に耀く心地よい小川のせせらぎを追うようにして音楽を奏でてみる。眼で追うと言うと何か少し違う気がするが、その流れを注視しつつ、流体の触感を共有する感覚だろうか。するとどうだろう、音楽はそれまでくすぶっていた彼の身体から抜けてゆき、恰も演奏者の懐へそのまま飛んでゆくようで、思わず驚いた。
馬齢を重ね、音楽が増々わからないと感じることがある。自分で分かる気がするのは、何も理解できていないことのみ。
久しぶりに浦部君と再会。元気そうで嬉しい。少し逞しくなったように見える。
復活祭でカラブリアの実家に戻っていたガブリエレは、実家で採れたオリーブ油を一斗缶に詰めて持ってきてくれた。早速夕食は庭で摘んだセージを千切り、パルメザンチーズを削ってパスタに載せ、採れたてのオリーブ油を存分にかけて頂く。至福の味である。
4月某日 ミラノ自宅
2年ほどの大工事を経て、この年始、二軒先に立派なマンションが完成した。ちょうどその玄関先に、高さ15メートルは下らない立派なケヤキが生えていて、往来の人々の目を楽しませていた。
流石に誰もがこのケヤキを切ることはなかろうと思っていると、ある朝造園業者の一団が、道路を通行止めにして上枝から順番に電動のこぎりで掃い始めた。そうして午後には、直径1メートル半ほどの切り株だけ残して、見事に全て切り倒してしまったので、近所の人々はみな呆気に取られた。
それから4カ月ほど経って春が到来し、そのケヤキの切り株の後ろから、思いがけず新緑が元気よく芽吹いているのを見たときは心が躍った。
朝の散歩の帰り道、家人とまじまじとその新芽を愛でていると、同じマンションに住む紳士が通りかかった。
「あんなに立派な樹だったのに、なんて罰当たりなことをしたもんだろうね」。「でも見てください、この新芽、こんなに元気ですよ。感激しますよ。ほら、凄いでしょう」。
「おお、そうだな。でも前の姿に戻るまで20年は下らんよ。それまでは流石にこちらが持たんだろうな」。
一瞥すると軽く溜息をつき、足早に我々のマンションに姿を消した。
息子は、先日フィレンツェでカニーノ先生のレッスンを受けたヤナーチェクのヴァイオリンソナタを練習している。カニーノさん曰く、冒頭の音型を彼は少し引掻ける塩梅で弾くそうだ。確かに少し角ばったような音像があると、燃え立つようで野趣も増し、ヤナーチェクの民族色も浮き彫りになる。そこにはイタリア的な読譜観が絶妙に共存していて、感嘆した。
無駄のない素晴らしい作曲家なのは言うまでもないが、観念に凭れぬ合理性がイタリア人の音楽観と多くを共有するのか、ヤナーチェクを絶賛するイタリア人音楽家はとても多い。
日本政府の有識者会議より、技能実習生制度廃止への提言発表。
4月某日 ミラノ自宅
運河の向こうに佇む「夢想者」食堂では、毎朝息子が気に入っているシチリア風甘食パンを焼いている。今朝あわててそれを買いに出かけた折、誤って強たか胸を打った。
その瞬間脳裏に甦ったのは、小学生の頃、父と連立って金沢八景に釣りに行き、何某かを堤防から海に落としてしまい、それを父が身を乗り出して拾ってくれたときのこと。その瞬間、彼はドーンという、鈍い、大きな音とともに、鉄柱に胸を打ってしまった。普段痛みに強い筈の父が、やっとの思いで起き上がると辛そうに酷く顔を歪めていて、暫く言葉すら出せなかった。
あの時、子供心ながらただ申し訳ない思いだけが残り、恐らくしっかり謝ることさえできなかったのではないか。何が起きたのか、よく分からなかったが、自分が胸を打った瞬間、ああこれだと独り言ちて、あの甘酸っぱい自責の念が、まざまざと蘇った。理解できなかったのではなく、子供ながら無意識に理解そのものを躊躇っていたのかもしれない。家族というのは、不思議な繋がりだとおもう。
ヘルソンにてレプーブリカ紙特派員コッラード・ズニーノとウクライナ人ガイド、ボグラン・ビティクがロシア狙撃兵の攻撃を受け、ビティクは死亡。スーダンより退避の邦人、自衛隊機で帰国。外国為替相場、対ユーロで円安が進んで14年ぶりに150円台に下落。
(4月30日ミラノにて)