親父が死んだ

篠原恒木

先日、親父が死んだ。百歳だった。

午前零時を過ぎた頃、「そろそろ寝ようかな」と、寝室の灯りを消したら自宅の電話が鳴った。その瞬間に、
「あ、これは死んだな」
と確信した。電話に出ると、介護施設からで「呼吸が止まった」とのことだった。
「あっという間だったなぁ」
そんな間の抜けたひとりごとを言いながらモソモソと着替えて、ツマと一緒にクルマに乗り、自宅からすぐの場所にある施設へ向かった。

死ぬ三日前に面会したときは、かろうじて会話ができていた。「かろうじて」と書いたのは、親父は耳がとても遠くなっていたので、話すときは耳のそばで大声を出さなければならなかったからだ。五分も喋ると、おれの声が嗄れた。だが、その日はこちらの話すこともどこまで理解できているのか曖昧だったような気がする。

死ぬ二日前、施設を訪ねると車椅子に座ったまま口を開けて寝ていた。いや、寝ていたというよりは意識が混濁しているようだった。昨日の夜から食事も一切摂らないという。呼吸をするたびにゴロゴロと痰がからむ音がしていた。この日は声をかけると一瞬目を開けて、
「コーラが飲みたい」
と弱々しい声で言った。
コーラが大好きな百歳。
施設内の自販機で買って、口に含ませると、ゆっくりと飲み込んだ。
「おいしい?」
と訊くと、目を閉じたままで反応がなかった。再び耳元でもっと大きな声で訊くと、
「うまい」
と応える。そばにいてくれた看護士さんが「意識のある今のうちに薬を飲ませたい」と言って、錠剤を砕いてとろみをつけてスプーンで飲ませた。すると親父は、
「これはコーラじゃねえ。ゲロを飲ませる奴がどこにいるんだ」
と、呂律の回らない声で怒った。こんな状態になっても口の悪さは相変わらずなんだと思ったら、少し笑ってしまった。
「ゲロじゃないよ、今のは薬だよ。じゃあ口直しにもう少しコーラを飲もう」
と言って、コーラを少しだけ飲ませると、満足したのか、また眠りに落ちてしまった。

次の日、つまり死ぬ前日はベッドに寝たままだった。医者が往診して、水分補給のため点滴を受けた。酸素供給量が足りないので、酸素マスクをつけていた。医者は延命治療をするかどうか訊いたが、おれは結構ですと答えた。
「それよりも今の本人は苦しいのでしょうか?」
「意識がはっきりしていないので、苦しさはあまり感じていないかと」
「苦しいのはできるだけ取り除いてください。僕らの望みはそれだけです」
隣にいたツマも大きく頷いていた。

帰宅するとツマが言う。
「お父さんはまた復活すると思うよ」
親父はこれまで何度も医者から
「今日、明日がヤマですから覚悟しておいてください」
と言われていたが、そのたびに奇跡の回復をしていた。それはもう、呆れるほどしぶとかったのだ。ツマはおれよりもそれらのいきさつをよく知っている。
「痰が切れなくなっているのが辛そうだよなぁ。あれが呼吸を邪魔している。苦しくないのかな」
「苦しいのは可哀想だよ。お父さんはアタシによく訊いていたもん。『死ぬときは苦しいのかな』って」
「なんて答えた?」
「お父さんは長生きしているから死ぬときは楽に死ねるよ。それにまだまだ死なないから大丈夫。そう言った」
満点回答ではないか。
「でもなぁ、親父の顔、おふくろの臨終のときと同じ顔をしていた」
「そうかなぁ」

ここ数日で親父のバッテリーは急に残量が減ってきていた、とおれは感じていた。百歳だもんなぁ。その前からこちらの問いかけにも段々と反応が鈍くなっていた。頑張っていたけれど、もう限界だよ。百歳だぜ。つい先日まで自力で痰を切っていたけれど、それも難しくなったようだ。あの痰がゴロゴロしている状態はいつまで続くのか。医者は「苦しさは感じていないだろう」と言ったけど、もし苦しいのなら、いますぐにでもスーッと息を引き取ったほうがいい。

もし近日中に親父が死んだらおれのさしあたっての予定はどうなるのかと手帳を開いた。キャンセルの嵐はややこしいことになるな、と思った。親父が死にそうなのに自分のスケジュールを気にしている息子って結構サイテーだよなと気が付いたが、基本的にそういう奴なのです、おれは。

翌日は仕事で面会には行けなかった。帰宅して晩めしを食べ、午前零時を過ぎたので寝ようとしたところへ電話が鳴ったのだ。施設に着き、親父の部屋に入ると親父は眠っていた、いや、死んでいた。まだ暖かい額を触りながら、
「楽になったね。まあそれにしてもよく生きた。よく頑張った」
と声をかけた。施設のスタッフが泣き出して、それにつられてツマも泣いていたが、おれの涙は一滴も出なかった。おふくろのときもまったく泣かなかったのを思い出していた。

おれにとって年老いた両親はどこか煩わしい存在だった。
育ててくれた恩義はある。だからおふくろにも親父にもできるだけのことをしたと思う。
「いや、もっと献身的にできたはずだ。もっと優しく接してあげられたはずだ」
と言われれば、返す言葉もないのですがね。
おふくろも弱ってからが長かったので、死んだときは正直言って肩の荷が半分下りた。だが、親父が残った。こちらのほうはもっと長持ちした。そのあいだ、我がツマにもいろいろと負担をかけた。考えてみればこの十年間、二泊以上の旅行をしたことがない。東京を離れると、もしものときに困るからだ。親父が死んだら、おれたち夫婦は精神的にも時間的にもかなり自由になれるのだろうな、と頭の片隅でいつも思っていた。

やがて親父の部屋に医者が往診で駆け付け、死亡を確認した。とっくに死んでいたのだが、死亡時刻とは亡くなった事実を医者が確認した時刻らしい。午前1時5分だった。受け取った死亡診断書には「死因・老衰」と書かれていた。老衰とはあっぱれだ、たいしたもんだ。親父は自分が死んだことも自覚せずに逝ったような気がする。知らない間に事切れたのではないだろうか。これは理想的な死のかたちのひとつですよ。百年間も頑張って生きたご褒美だよ。

施設のスタッフに訊くと、遺体はこの部屋からすぐ移動するのが決まりだという。ならばと葬儀社に電話すると三十分で到着した彼らは手際よく親父の遺体を車に乗せた。とりあえず親父はこのままセレモニー・ホールへと移動するようだ。葬儀社のヒトたちはきわめて情感たっぷりの儀式的な演技をしているように見えた。施設から出ていく車を見送るとき、スタッフの方々は手を合わせて泣いてくれていた。財布を落としたとき以外は泣かないツマも泣いていた。おれは車に向かって大きく手を振った。行ったこともないセレモニー・ホールへ一人で向かう親父はきっと心細かったことだろうなぁ。いや、自分が死んだことを自覚していないのだからモンダイはなかったのかもしれない。

火葬場の都合で、葬儀は三日後と決まった。おれはそれまで毎日セレモニー・ホールへ行き、親父と面会して焼香をした。いや、ものの五分間程度なんですけどね。面会は予約制だった。考えてみれば、遺体が安置されているのは親父だけではないはずだから、予約時刻になると親父の遺体を運び出し、用意を整えてくれるというわけなのだろう。死んだ翌朝に行って、親父の額を撫でたらキンキンに冷えていた。社会はすべてシステムによって動いている。

葬儀は家族葬で済ませた。百歳にもなると親戚一同、一族郎党はすべて亡くなっている。知らせるべき友人たちもこの世にはいない。
寺の住職と一緒に火葬場へ向かい、棺を焼却炉の中に入れると骨になるまで五十分ほどかかると言われた。おれは今まで出席した葬儀を思い出していた。あっという間に骨上げをしたような記憶しかなかったので、五十分とはずいぶんと長いな、と思った。
待合室でツマ、住職と食事をしながら、一般的な世間話ができないおれは、
「五十分とは長いですね。低温調理ですかね」
と住職に言った。ツマはおれを睨みつけていた。

とにかく頑固なジジイだった。自説を曲げることを一切しなかった。常に自分が正しいと思い込んでいた。オノレが正しいことを証明するためには平気で嘘もついていた。

いつも怒っていた。「怒り」とは「他者との価値観の相違」から生じる感情らしいが、親父の価値観を共有できるニンゲンなど、ただの一人もいなかった。めったやたらと怒っていたのはそのせいかもしれない。

戦争に兵隊として駆り出された体験を、一度として語ろうとしなかった。記憶からむりやり消そうとしていたのだろうか。今となってはわからない。

「もうすぐ死ぬからもったいない」
と、補聴器の購入を受け入れず、その割には「体にいいから」と青汁を飲んでいた。
「来年は迎えられそうもない」
と言いながら、大晦日には我がツマが作った蕎麦を食べたいから届けてくれ、一緒に食べようとホザいていた。本音はまだまだ生きたかったのだろう。

さんざん貧乏暮らしをしてきたせいか、うんざりするほどカネに細かかった。飛び込みでセールスに来る銀行マンにいい顔をしたいがために、あちこちの銀行、信用金庫に小金を預けていた。小銭で株や投資信託もしていたようだ。そのせいで戸籍謄本と戸籍抄本の違いも判らないおれがいま苦労をしている。戸籍全部事項証明書って何だよ。口座用株式移管依頼書なんて聞いたこともないぞ。にっちもさっちもいかない。そうだ、家じまいもしなければならないではないか。

親父よ、アンタは大往生だったが、おかげでおれは立ち往生しているよ。