わからなさの方へ

西荻なな

謎は謎のままに生きることがあった方がいいのかもしれない。
答えはすぐに求めてはいけないのかもしれない。

自分の中に答えのない未知の出来事や感情に遭遇した時、その居心地の悪さに耐えかねて、つい取り込みやすい形の、わかりやすい答えや結果を切迫に求めてしまう。ということが、我が身を振り返ってみてとても多いことに気づいた。何かに行き詰まった時、往々にして問題は自分の心の中にある。その答えは自分の心の中にある。それなのに、外側に答えがあるはずだと思って掘り続けてしまう。そこに終わりはない。

もちろん問題の要因が社会にあることだってある。
時に尊厳をかけて闘わなければならないことだってある。
でも、目の前に横たわる謎が必ずしもネガティブなものでなくて、今後どう展開していくのかわからない白黒はっきりしない分からなさであるような場合、不確定で、先が読みにくいもやもやとした不定形なものであるような場合、その中にダイブしてみることを恐れていては、真に冒険に身を委ねることなどできないのかもしれない。
例えば親しい友人との関係に何か暗雲が立ち込めてきた時。何があったの? 私が何かした? と問いを相手に差し向けるのではなくて、ゆったりと次の晴れ間が差してくるまでとにかく待ってみる。その会話や問いを一度宙吊りにして、そこから離れた日常の時間に戻ってみる。他の豊かな何かで自分の心を満たしてみる。
そうして初めて不思議と霧が晴れる瞬間が訪れたりもする。相手に問題があると思っていたことが、ああ私のこんなところに引っ掛かりがあったのかと積年の何かに気づかされたりもする。相手の中に、目の前の何かとの関係を解くことに答えがあると考えて、解を求めることに必死になってしまったならば、わからなさとの戯れの中にあるはずの無数の可能性を見逃してしまう。豊かな時間は目の前にあるのに、そのことに気づかないままに通り過ぎてしまうのかもしれない。

わからないことはそのままに日常の中に漂わせておいて、日々の流れに身をしっかりと委ねてみる。わからなさをしっかりと一度抱えて、わからなさの中に堕ちてみる。そうして別のタイムラインで、別の空間で感じたことをもう一度地上に持ち帰ってみる。今までと違う空気をまとって、違う音楽を奏でられるような何かをそっと目の前に差し出してみる。そこで何が起きるのかを静かに待ってみる。