2016年は間違いなく邦画の当たり年だったと思う。どこに行っても「『シン・ゴジラ』観た?」「『君の名は。』観た?」の会話が夏から秋にかけて、挨拶代わりに飛び交った。このヒットの体感を過去作に喩えるなら、かなり昔のことになるが『タイタニック』だろうか。あるいは『もののけ姫』? ヒット作が一挙に2作もやってきて、誰もかれもが浮かれているように見えた。
おじさんたちは『シン・ゴジラ』に「この世の春が来た!」とでもいうような興奮ぶり、熱弁ぶりだった(周囲の女性も結構見ているのだが、それに比して感想を語る鼻息が荒い印象)。「群衆の描き方が、まさに日本の真理を捉えている」「うだつの上がらない首相の描き方がうまい」などなどディテール語りを誘う。確かに、ゴジラの存在を脇に置いておいても、震災後の機能不全に陥った日本官邸の内側をのぞいているかのような臨場感もあり、時間を引き戻して「あの日」を思い出させる仕掛けになっていた。危機的状況に際して、イエスマンたちからなる”ザ・日本人集団”が退場せざるをえなくなり、結果的にアウトローで通っている一人ひとりの寄せ集めが日本を救う、という筋書きは、閉塞的日本に生きる多くの日本人の気持ちを代弁してくれたにちがいない。ある経済学者には「君まだ見てないの? 界隈でも大評判だよ」と叱られたくらいだ。
対する『君の名は。』のヒットは、描かれた舞台の一部である四谷や新宿御苑界隈に聖地巡礼に訪れる人が多いらしい、という事情によってもうかがわれて、「ポケモンGo」的な人々を連れ出す外側への広がりで感じていた。時空を超えての体の入れ替わりのストーリーには「それはよくあるよね」と思いながらも、風景描写がとにかく緻密ですごいという。でも実際に耳を傾けてみると、「巻き戻らない青春時代を思い出してキュンとした」という感想を述べる人と「よく分からない」という人とが拮抗。
どちらも正直、観る前にすでに耳年増になっていて、両作品をようやく観ることができたヒット最盛期すぎにはすでに、能年玲奈が2年ぶりの沈黙を破って主役の声を演じるという『この世界の片隅に』の公開に目が向いていた。『君の名は。』を見終えた後、「こういう作品が大ヒットをする時代なのか……」という寂しさと不可解さに肩を落としかけていたこともあって、早く観たいとの気持ちが募っていたのだ。
そして…『この世界の片隅に』は素晴らしかった。
主人公の浦野すずは広島市に生まれ、家は海苔を作っている。いつもぼんやりしていて迷子になってしまうような子どもだが、絵を描くのが好きで、絵を描きながら妹に今日の小さな出来事を語り聞かせたりもする。絵を描きながらのすずの語りは名調子で、活弁士のよう。少し創作が入ったりするから、妹は大喜びだ。すずがどんなにぼんやりしていると言っても、この活き活きとした語りのリズムと、時にツッコミのように入るユーモアが全編の空気を作り上げている。例えば、すずの恋の気持ちの明るさは、すずが描いたカラフルな水彩画の風景が、次の瞬間に立ち去る相手の姿とともに現実の風景となって立ち上がることで、さりげなく語られたりする。里帰りで呉から広島に帰り、実家の温もりに触れたのち、再び汽車に乗り込む寸前に買った画材で描く広島の風景。空襲で空の風景が一変するときには、そこに黄色、水色などの絵の具の色をすずは思い浮かべる。心の中で空に絵の具を塗る。
広島に生きる浦野家一家の日常と小さな恋、戦前の伸びやかな空気と明るさ、そこからすずの嫁入りで呉に舞台が移り、戦争の影が忍び寄ってきたのちの時代の空気もが、彼女が描く絵のタッチとその語りの調子とともに、すっと入ってくる。明るさの隣に影があったり、影をユーモアで打ち消そうとしたり。すずの語られえない複雑な感情もが、絵の思いがけない奥行きによって語られる。次の瞬間、そのすずの感情が、観る私の中に引き出され、すずの描く(時に思い描く)タッチに乗ってゆくようなのだ。それは不思議な体験だった。
作品の中で日めくりカレンダーのように、丁寧に描写される戦時の日常リズムとともに、すずに彩られたこの語りの枠組みの強さを痛感することになるのは、とりわけ世界に暗雲が立ち込めてからのこと。絵を描けなくなってからの、右手を失ったのちのすずの心の内は、彼女が描くことのできなかった情景として押し寄せてくる。でも同時に、すずが描いた何枚もの絵が脳裏に蘇り、リフレインする。戦後を迎えてガラッと一変した空気の中、広島と呉の風景、そして失われてしまった戦前の空気もがカラフルに立ち上がってきて、いくつもの感情を知ってしまったすずにむしろ後押しされるような気持ちになるのは、すずが絵心を取り戻すことが感じられるからなのだと思う。鉛筆、水彩、描かれたもの、描かれなかったもの。時々の細やかな表現が、とても豊かな作品だった。