考えないを考える

高橋悠治

音がうごくとその位置の変化を身体で感じるのと 音のうごきにつれて身体がうごくのと それとも身体が音の先端になってうごいていくと感じるのは おなじことのようでも 意識がちがう 人と音が二つの並行した状態に感じられるところからはじまり だんだん音にうごかされ そのうち人は消えて うごく音だけが残る とも言えるし 音が消えて うごく身体の感じが続く とも言えるかもしれない

音がうごくと感じるのは 消えてすでにない音と まだない音を結ぶ線のなかにいる感じとさらに言えば その線は枝分かれすることもあり 途切れることもある 途切れても 別な線がそこでもうはじまっていれば 音楽は続いていくが ちがう方向に曲がっていく

それでも線が途切れたなら どこかにもどってやりなおしてもいい 今まで見えなかった出口が現れるかもしれない ところで やりなおすために どこかにもどれるとしたら そのどこかは 記憶のなかにある音のかたまりということになるだろう 即興の場合には 記憶は意識のなかに残っている結び目で それが消えないうちに引き継ぐ それは会話のなかで前の話題にもどるときのように おなじやりかたでくりかえされることはない 中断したした時と環境がおなじに思えても ほんのすこしだけ間があれば 引き継いだときには ちがう方向がひらけるかもしれない

書かれた記憶 たとえば走り書きした楽譜なら どこか目につく箇所からまたはじめる 書いている途中でそこから離れて時間が経っていたら 再開したとき前後の脈絡が思い出せないかもしれない そのほうが辿る道筋が複雑になり おもしろくなることもありうるし それがすこしずつ書きすすめるやりかたの理由にもなる

書いたものを辿りなおす時 やりなおした箇所ではないところで 続いていたはずの線が途切れていると感じるかもしれない 感じが途切れると そこまでのまとまりは 断片のように置き去りになる

全体の枠を決めてからそのなかに音のかたまりを置いていくのと 置く音を集めてからそれらを並べて全体を作るのと二つのやり方がある まずうごきはじめ うごいた跡がかたちをなすのは そのどちらともちがう

すこしずつうごいては停まり やりなおしながら継いでいくのは どうなるかわからない遊びで 感じが途絶えるまで続けて おなじところからもう一度やってみると 似たはじまりをなぞりながら やがて逸れていく

音楽を即興し 作曲して ふりかえって考えて見る ふだんはしないことだが こんな時に 書くことがないから 過ぎた音楽について考えることになったりする 書いているうちに 意味をつけたり まだやってないその先まで書いてしまいかねない そうなると 書いた内容にしばられるだろう

まずうごき うごいた後に考える そのときに うごく前の状況が見えれば その前にさかのぼって 別な可能性をみつけることができるかもしれない すでにないものから まだないものへの可能性

意識していた前提は もうない音楽かもしれないし 音楽でない現実のなにかかもしれない その両方かもしれない 意識からも隠れたなにかかもしれない

音楽を即興し作曲することは ことばで言わないという選択かもしれない

何かを言わないのは 言わない何かを指す方法かもしれない