テッポウユリのことなど

越川道夫

夏になると、テッポウユリというのだろうか小ぶりの白いユリの花が林の中に咲くのを心待ちにしている。わたしの住んでいる辺りの林では、まず白い大ぶりの花びらに黄色の筋と赤い斑点を散らしたヤマユリが咲き、それが咲き終わるのと前後して朱赤の花びらが反り返ったオニユリが満開になる。テッポユリが急速に背を伸ばし、白い花を開かせるのはその後ということになる。子供の頃、実家の向かいにある斜面が一面この白いユリに埋め尽くされるということがあり、その美しさに見惚れたものだが、それ以来この花を偏愛している。もちろん住宅地の家の庭先でも見られる花ではあるが、濃い緑となった林の暗がりに咲くのが断然いい。群れて咲いているのもいいが、木木の下に一本、二本と咲いている、その佇まいが好きなのである。ただ、林の中の下草の中から姿を表すと、ぐんぐんと背を伸ばし、蕾が開いたと思うと、花は一週間ほどで萎れてしまう。ちょっと目を離すと、もう最盛期の花を見逃してしまうし、うかうかしていると花そのものを見ないまま秋を迎えることになってしまいかねないので、今か今かと足繁く林に通うことになる。筒状の花が、茶色く萎れて根元から落ち花柱の頭にぶら下がり揺れているのを見るのも好きなのだけれど。
 
「駅から川へ向かう坂にある半鐘を吊した鋼鉄の火の見櫓、石垣の奥の古い家々などを辿っていたばかりですが、石垣が途切れたちょっとした草はらに、百合の花が二輪開いていて、あの二人みたいでした。あそこで出迎えてくれたようです。携帯(ガラケー)の待ち受け画面にしたので、今度見てください。」
 
このメールがその人から来たのは、いつだったか。その人は、私が撮った短い映画の原作者であり、「無論ロケ先などは分かりませんが、皆と同じ場所へ行っておきたかったのです。」と、その映画を撮影した山間の町を訪ねてくれたのである。メールにある「あの二人」とは、映画に、もちろん原作の散文にも登場する恋になりようもない苦しい恋をした若い男性とその恋の相手である女性のことであり、その男性は若い日のその人でもあった。
 
確かにユリの花は、その映画にとって重要なモチーフの一つだった。それは、原作のこの二人とは直接関係のない箇所に、聾教育を学んでいた彼が「ユリ」という手話を目にするのを印象的に描いた部分がある。その「ユリ」という手話は「くちびるの前でぱっと掌をひらく」という「ユリ」の花を象った手話であった。映画では、そのエピソードを出会の頃の二人の関係に持ち込み、終盤に彼は山歩きの途中、廃屋の軒先に咲く一輪のユリの花を見ることになる…。後日、その人はどこかはにかみながら携帯の待ち受けを見せてくれた。そこには寄り添って立つ二輪のユリの花が、そして、映画が撮られた山間の町は、自分にとって「苦しい場所」だ、と教えてくれた。それが、山間の町そのものが彼を苦しくさせるのか、それとも彼の一時期をもとにした映画がその町で撮られたためなのかは分からない。
 
その人の名前は「江代充」と言い、映画のもとになった彼の本は『黒球』(書肆山田刊)という。一人で暮らしていた詩人である江代さんがこの3月に72歳で亡くなり、彼の編集者だったFさんとわたしが他の人の協力も得ながら部屋を整理することとなった。遺された詩稿をなんとしてでもまとめておかなければという切羽詰まった思いがあったからだ。江代さんは日日、「日記」と呼ばれるノート稿を書き、そのノート稿を、時を置いて何度も繰り返し「読み改める」ことによって、そこに何らかの「顕現」を見出そうとしていた。それを「詩」として書いた、と言えるかもしれない。そこに書かれた言葉は、何かの「顕現」なのであって、彼の「言葉」でありながら彼の「言葉」ではなかったのである。少なくとも江代さんは、そう把握していたのではないか。
 
何度もマンションの一室に通い片付けると同時に、わたしは何の目算もなく主を失った部屋を撮影していた。この部屋の中で、日日は読み改められ、「すべて明らかでありながら、何ひとつ明らかになっていない」ような彼の「詩」が生まれたのだという思いがカメラを回させたのである。しかし、亡くなった当初は部屋の中に濃厚にあった江代さんの気配も、5月に納骨が終わると急速に薄れていったのは気のせいだろうか。そして、カメラをどれだけの時間回しても、どれほど遺された「物」の一つ一つを撮っても、映像にはついに「いない」ということしか映りはしない。
 
中上健次の『熊野集』に、わたしはこの一冊を中上の本の中でも愛して止まないが、こんな一節がある。中上は、彼が「何度も小説の舞台」にし、彼にとって「絶えず新しい読み終わる事のない本として」あった「路地」が取り壊されようとする時、その「路地」を映画としてフィルムに収めようとする。
 
「…十六ミリのカメラを借り受け、スクリプトを作り絵コンテを作成して建物と道路と草花と空きカンと路地にあるものなら何からなにまでカメラの被写体になると言って映画を撮りはじめた。カメラを向けてもそこには味けない日に焼けたコンクリの道しかないが、そこがまぎれもなく麦畑の麦だと思い、カメラを持った若衆が汗だくなっているのを知りながら、そのコンクリの道から麦の精霊が顔を出すまでフィルムを廻しつづけろと言う。カメラに精霊を写す事も無理だしそこに麦が植えられていた事も芋が植えられていた事も知らない若衆に、たとえ一人の剽軽だが悪戯者の韓国人の少年が不意に韓国人の集落の方から走って来たとしても視えない。」
 
言うまでもなく、「一人の剽軽だが悪戯者の韓国人の少年(ヤンピル)」はすでに死んだものだ。「麦の精霊が顔を出すまでフィルムを廻しつづけろ」と言いながら、カメラには何も映りはしない。そのことを中上は知っていたのではないか。カメラとは、フィルムとは、そんなロマンティックな代物ではない。映るとすれば、それが「もうない」ということだけなのだ。「不在」が、「不在」だけが。しかし、その「不在」でさえ、「それは、かつて、あった」ことを知らないものには「視えない」。そこに映っているのは、ただ「味けない日に焼けたコンクリの道しかない」のである。では、やはり「不在」ですらも? わたしたちは「カメラには何も映りはしない。」ということからしか始めるができないのではないか。
 
江代さんの部屋の片隅に小さな花瓶がある。そこに挿されているのは数枚の団扇だが、団扇だけではなく、その後ろにはテッポウユリの種の鞘が一本挿されているのを見つけた。わたしは、その枯れ果てた鞘にカメラを向けて撮る。そして、もうしばらくすれば、この部屋に遺されたあらゆるものと共に、この鞘も廃棄される。