柘榴、またはぶら下がる心臓

越川道夫

失うことの多い一年だった。
コロナでというわけではないにしても身辺の幾人かが立て続けに亡くなり、去らざるをえなかった人は去った。
とりわけ17歳で出会い、40年近く私の〝師匠〟であってくれた澤井信一郎監督の死は、いまだ受け入れ難いものとしてある。この数年、お電話をするたびに弱々しく、老いた病者の声になっていく〝師匠〟の声に、わたしはどこかでひどく怯えていた。「お前が撮っていいからな」とかつて彼が書いた脚本を預かってはいたが、その映画化は遅々として進んではいなかった。また間に合わない。これまで何人もの人たちと一緒に仕事をする約束をし、約束は結局果たされることなく、その人たちは逝ってしまった。彼らがわたしを責めることはなかったし、もはや責めようもないのだが、責めを負わなければならないのはわたし自身の怠慢である。わたしの胸の内に間に合わなかったという後悔だけが降り積もっていく。死者の数だけ。
9月になって、〝師匠〟は亡くなった。もう3ヶ月も前から意識が無かったと言う。疫病が蔓延する最中、見送ることすら叶わなかった。
 
それでも12月には小さな映画を撮っていた。人が不意に何の前触れもなくいなくなってしまったり、遠く離れざるをえなかった人に思いを馳せたりするそんな映画だった。それは、この失うものの多かった1年を過ごした実感だったかもしれない。この間、わたしはチェーホフを読み、ひどく惹かれて徳田秋聲の「死に親しむ」を繰り返し読んでいた。
その日は撮影の最終日、千葉の砂丘の近くですぐに暮れてしまう太陽と追っかけっこでもするように慌ただしく撮影をしていた。遅い昼食をとろうしていた時、その電話あった。ほんの1ヶ月前に電話で話し、ではまた、と切ったその人が亡くなったと言う報せだった。しかも、火事で。電話の向こうもこちらも混乱していた。その人も長く一緒に暮らしていた方を亡くされたばかりだった。
 
それは映画とは何の関係ないことだ。仮に映画を撮っていなくても起きてしまったことなのかもしれないが、お互いに無関係であったはずのものが、引き寄せ合うように、わたしの眼の前にある。わたしはこんなことを望んではいない。こんなことのために映画を作ってはいない。望むはずもない。しかし、もし「偶然」ということがこの世にあるのであれば、このようなものを呼ぶのかもしれない。悲しい。悲しいし、痛まし過ぎる。
 
撮影を終え、体調の崩れを感じながらそれでも毎日仕事場までいつもの川沿いの道を歩いていく。昨夜は、またいちから始めなければならないと思いながら、若い頃に度稽古場の助手をつとめた演出家が遺した本を読んでいた。彼は「劇」というものを仔細に疑いながら、その半ばで性急に「劇の希望」を書きつけていた。
 
「しかし、表現者が表現の現場にいるということは、希望を見ているということだ。そして、そういう表現に触れようとすることは、そこに希望を見ようとしているということだ。それは希望でなければならない。希望を見ているから表現があるりうるのだし、それなしにはありえないのである。」(太田省吾『劇の希望』)
 
見上げると道端の柘榴を数羽のメジロが食べている。鳥たちに啄まれ尽くしてぶら下がっている柘榴の実の残骸。それは腑分けされ、吊るされた心臓の形をしていた。あれはわたしの心臓だ。そう思った。
こんなことを書くと〝師匠〟はまた「なんで風景に逃げるんだ」と怒るだろうか。