しもた屋之噺(239)

杉山洋一

数年前に息子が入院していた、ニグアルダ病院の巨大な大理石の正面玄関に、メリークリスマスの赤いスライドが投影されています。そこにはニグアルダの医師、看護師にむけて「心からありがとう」と書かれていて、その上に、亡くなった医療関係者のために「心からありがとう。自らの生命を捧げて、わたしたちを救ってくれた人たちよ」と感謝の心が綴られています。
乳白色の朝靄の奥深く、どこかの教会の鐘が「聖しこの夜」を打っていて、それは街のあちらこちらに反響して、不安定なカノンになりました。これは早朝から愉快なことだと独り言ちつつ、足早に朝食のパンを購ってきたところです。

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12月某日 ミラノ自宅
岸田首相、今月一杯の新規日本向けの航空券発行停止を発表。在外邦人帰国の新規航空券発行も一時中止。先日隔離期間短縮が発表されたので、それに合わせて帰国便を予約したばかりだった。改めて二週間の隔離期間に戻すべく航空券を変更しようと航空会社に電話したが、変更も同じ扱いで断られた。かかる日本の水際対策と、今後の更なる欧州感染拡大を鑑みて、年末の日本帰国は諦める。

12月某日 ミラノ自宅
作曲にあたり、以前は用意したスケッチを、強迫的に使い尽くそうとしていたが、何故だったのだろう。経済的に作曲しなければならない強迫観念に駆られていたように思う。
何時からかスケッチの半分は捨てるようになり、最近は予め用意した音符の凡そ8分の7は切捨てているから、甚だ効率が悪いと自らを恨みつつ、書き進めると断捨離の清々しさを覚える。
旋律への偏愛がより詳らかになったのは、生来のカスティリオーニの影響か、さもなくば単なる懐古趣味か。幼少からの民族音楽へ興味が素材作りの基本にあって、ドナトーニの作曲姿勢と質感を無意識に追いかけつつ、何十年も変わることなく三善先生や悠治さんの音が縫い込まれたカンバスに対峙している。

12月某日 ミラノ自宅
東京で般若さんが「河のほとりで」を再演して下さっている。暫く前に、「河のほとりで、を読んでいると、必ず泣けてくる箇所があります、不思議です」とお便りを頂いたが、彼女の方が、余程楽譜を通して音楽と交信していると思う。作曲中は確かに音と繋がっていても、脱稿すれば、意識的か否か、殆ど楽譜を顧みることはない。
その程度の付合いだからいけないのか、普段から食卓で仕事していて、息子は手持ち無沙汰になると、何かと話しかけて来て邪魔をする。
放っておいてくれと言うと、「別に何も考えないで、ただ音符を書き写しているだけじゃないか」と、強弁して不貞腐れた。
今日は4時前起床。昨晩仕上げる筈だった部分を漸く終わらせ、6時前に息子を起して、パルメザンチーズのオムレツで朝食を食べさせ、散歩しつつ作曲の続きを考える。

川口さんより練習時の録音が届いた。口を挟むべきことは何もない。一面セピア色のフィルターがかかっていて、一見旧い装いかと思いきや、実際はとても鮮烈で峻烈な映像を目の当たりにした気分になる。彼の表現の幅が広く、深いからに違いない。
リストは好きな作家ではなかったが、最近随分印象が変わったのは、否応なしに毎日息子の練習を耳にしているからだろうか。

12月某日 ミラノ自宅
家人は今月のミラノへの旅程を断念。演奏会があって1月に改めて日本に戻る予定にしていたが、その際、6日間は隔離施設で待機となり、機内に陽性者が見つかれば、そのまま2週間、隔離施設の部屋から出られない。2週間ピアノに触れられないのは、演奏会直前のピアニストには流石に考えられないだろう。
よって、家人の結論は当然で異論はないが、全く家事に貢献しない愚息はどうにかならないものか。幾ら言い聞かせても埒が空かないのは親の責任であって、甘受せざるを得ないが、ただ、目の前の堆い仕事の山に眩暈がするだけだ。
そんな毎日にあって、せめてもの心の慰めは、毎朝胡桃3個と決めている庭のリスの餌やりで、庭に棲みついている3匹のリスが、愉快に鬼ごっこをしている様は、幾ら見ていても飽きない。
リスの食べ滓を狙って、洒落た小鳥が入れ替わり立ち替わり訪れるさまも目を愉しませる。時には腹が純白の番のきれいな鴉もやってくるけれど、リスが尾をけたたましく振って威嚇するので、しばらくすると諦めてどこかへ飛び去ってしまう。

12月某日 ミラノ自宅
2年ぶりのスカラ座オープニング・オペラ中継「マクベス」を息子と見る。ネトレプコの第一声には脳髄に電流が走った。ぎっしり籠められた万感の思いに、思わず鳥肌が立つ。
昨年は感染拡大でミラノがレッドゾーンとなり、閉鎖された劇場から、無観客の寂しいガラ・コンサートが中継されただけだった。2年ぶりにオープニングに観客を入れ、オペラを開催できる意味に、誰もが深く感じ入った。
「マクベス」開演前、国歌斉唱の直前、貴賓席のマッタレルラ大統領に向けて、劇場中から惜しみない拍手が送られ、それは本当に長い時間続き、翌日の新聞でも話題になるほどだった。
コロナ禍前の2019年に比較して、イタリア国民の政府への信頼度は22%から37%に、大統領への信頼度は55%から63%に、大幅に上昇した。
マッタレルラ大統領の就任期間は来年2月で満期となり、既に退任は決まっているが、未だに続投を望む声は絶えない。ただ、本人が固辞している。
実兄をマフィアで失った彼が、シチリア人らしい厳しさと矜持で、この困難な2年間を国民に寄添い、語りかけた言葉によって、我々がどれだけ励まされただろうか。

「マクベス」中盤の大休憩の折、息子が陸橋前のピザ屋で「マルゲリータの焼玉葱のせ」とフライドポテトを買ってきて、後半はそれを齧ってキノットを呷りつつ観劇。話が展開するほどに緊張の高まる、久々のヴェルディに感無量。

12月某日 ミラノ自宅
耳で音を選ぶと端が柔らかくなる。敢えて固い音を選択すると、表面こそ固くても内側は溶けてしまって作曲者を懐柔するから質が悪い。
昔から音を自分から切離したかったが、それは悪だと信じ込んでいたから、突き放しつつ自分の裡に音を見出そうと躍起になった。
長い間試してみたけれど裡に音などないのが分かっただけで、寧ろそれを積極的に認めて自分が常に空洞であるよう意識することによって、音楽と関わるのが楽になった。

作曲にせよ演奏にせよ、自分が無理に音楽を紡ぐ必要がなくなったからだろう。シャーマンは、案外こんなものかしらとも思う。
ドナトーニが生前よく話していた、「少しばかり立止まってどうするか暫く考えてから、2、3日は間違えずに書くことに集中する」心地に、ほんの少し近いのかも知れない。

今日は、良く鳴るオーケストレーションと明快な和音を目指して、一日かけてあれこれと手直ししたが、結局最初の生硬な楽譜に戻した。オーケストレーションなどに色目を使ったのが間違いだった。
演奏者の立場から言えば、余程意地悪く書かれていない限り、工夫と意志さえあればオーケストラは凡そどのような音でも聴かせられるし、それなりの音が生まれる。

オーケストラを書く上で、音響効果や演奏効果を鑑みて音符を定着する作曲家はフランスに多く、譜面の都合を優先し、オーケストラを作品に適合させるべく作曲する作家はイタリアに多く、合理性から遠すぎて理不尽にすら見えたりもするが、それがイタリアの合理性とも言える。
ヴェルディやシャリーノも、旋律や音符がまずあって、それを定着させようと作曲に臨んだし、ドナトーニに至っては音符が全てだった。シャリーノに関しては、初期から現在までの変遷を忘れてはいけない。彼はその昔写譜仕事を通して、思いがけない音楽の発見に至ったのだから。
ロシア・ロマン派のオーケストラの妙技は、フランスから齎されたものだし、ドイツは基本的に質実剛健の道を外れなかった。

12月某日 ミラノ自宅
夜明け前、布団の中から漆黒の庭を眺める。最後の部分、音の雲が細部まで浮き上がってくるまで、ひたすら、葉を落した冬枯れの樹を見つめる。

母が平塚に住む従兄の操さんに電話をしたそうだ。操さんは4月生まれだが、手違いで出生届が3月に出されてさ、と相変わらず陽気に話していたそうだが、昭和の初めだと、手違いで生まれる前に出生届が出されてしまうのか。冗談のようで愉快だ。
操さんは底抜けに明るくて、信じられないほど記憶力がよく、でも楽天的な性格に見える。太陽みたいな印象で、周りにいるだけで楽しくなってしまう。

母が生まれた数日後に結核で亡くなった母の実父竹蔵は、家業の宮大工をしていた。操さんはその実父の兄の息子にあたる。
竹蔵が早稲田を出ていたとは、今日初めて聞いた。昭和の初めに、家業の宮大工を継ぎながら、東京の大学に通っていたとは想像もしなかった。
24歳で早逝し、娘の成長も見届けられず気の毒だったが、どの戦争にも出征せずに済んだのは、せめても幸運だったかもしれない。

竹蔵も建立に参加した住吉神社は、今も茅ヶ崎南湖に残っていて、随分前に訪ねたことがある。昭和3年に改築されているから、当時竹蔵はちょうど今の息子くらいの齢だった。現在も社殿に立派な龍をいただく住吉神社を、きっと家族総出で作ったに違いない。
母曰く、どこかに15、6人揃って立派な上棟式をしている写真が残っているそうだが、見たことがあるのは、それを引き延ばした自分に瓜二つの竹蔵の写真で、「住吉神社」と書かれた法被を着ている。
墓を作り直した際に、「先祖代々」にひっくるめられ竹蔵の名は消されてしまったが、94年後の現在も住吉神社がその地に息づいているのは、孫からすると素直に嬉しい。
竹蔵さんの写真に、息子は「これが曾お祖父さんかあ。自分の歴史の一部だな」と、ませた顔でのたまう。

12月某日 ミラノ自宅
台所の壁の向こう側で何か不規則な音がする。コトリと言ったまま暫く沈黙が続いたかと思いきや、やにわに壁を削るような音もする。隣かしらとも思ったがどうにも訝しくなって外に出ると、案の定若い男がどうやら壁をよじ登り天井に這い上がろうとしていた。
屋根伝いに隣のマンションを狙っていたのか分からないが、拙宅が目的ではないのは確かだ。そんな所で何をやっているのかと何度か尋ねると、終いには、煩いなという風情で、渋々線路の向こう側へ歩き去った。
ここ数年かかる怪しげな輩の訪問はなかったが、コロナ禍で生活が厳しくなっているのだろうか。

12月某日 ミラノ自宅
プレトネフのリサイタルに出かける。ショパンばかりのプログラムで、軍隊ポロネーズや舟歌など、知られた作品が並ぶ。思えば、前回彼の演奏を聴いたのは、コロナ禍の始まる直前の昨年の2月だった。その時のシューベルトも素晴らしかったが、今回のように誰でも知っているはずの旋律が、ここまで新鮮な未聴感に満たされるのは、最高の贅沢を味わった気分だ。
プレトネフを聴きにくる聴衆は、ショパンがどうというより、彼のピアノが聴きたくて来るのだから、最上の愉悦の一時を過ごしたに違いない。奔放でありつつ気品とユーモアに溢れていて、磨き上げられた珠玉の超弱音は、光を放ちつつ空間を縦横無尽に遊び、突如として訪れる強音の深さに息を呑む。
音の響きの幅を広げるためには、強音のレンジを幾ら広げても際限はあるが、弱音の領域を広げてゆければ、音空間は無限にも見えてくる。

解釈はまるで違うが、ブルーノ・メッツェーナのピアノも、鍵盤を絶対に叩かず、常に豊かな倍音を伴っていた。メッツェーナ先生にとっては楽譜の指定が絶対であって、テンポも厳守させた。
単一的な音色はメッツェーナ先生も嫌いだったから、不規則に音に凹凸を付けて演奏させた。先生がそれをやると自然と微妙な遠近感が生まれ、三次元的な音像が立ち昇る。別のアプローチでありながら、やはりそこにもプレトネフ同様、緻密な空間性が紡ぎだされるのだった。
どちらが好きと言うのではなく、どちらもいいと思う。
他人の楽譜を読むにあたっては、書いてある通りやるだろうが、自分が作者の場合、一度譜面を咀嚼してくれたなら、後は作曲者など忘れて好きに弾いてもらって構わないとも思う。フォルテと書いてあるからフォルテで弾くくらいなら、演奏者がその音を弾きたい音量と音色で、弾きたいフレージングで演奏してくれた方が本来の自分の意図に近い。楽譜に書ける情報など限られているし、作曲家だって人間だから、余りあてにしてはいけないと思う。

12月某日 ミラノ自宅
町田の両親が太田さんたちの「海へ」初演を聴きに行き、思いの外喜んでいる。
単調な曲だから飽きて寝てしまうと高を括っていたが、聴いているうち様々な風景が走馬灯のように見えてきてね、などと珍しく父まで興奮気味で、大丈夫かと寧ろこちらが当惑した。
「海へ」は、フォーレ「幻想の水平線」の「海は果てしなく」を、そのまま引き延ばしたものだ。
太田さんから平山さんを偲ぶ曲を頼まれたその瞬間にこの曲が頭に浮かんだから、きっと平山さんがこの曲を選んだに違いないと、そのまま書いた。
壮大な勘違いをしているかも知れないが、平山さんは明るい方だったから、笑って許して下さるのではないか。
詩を書いたドラヴィル・ド・ミルモンは、第一次世界大戦に志願し、何度も身体検査で落とされながら、漸く参戦が許されると地雷爆発で生埋めになり、間もなく1914年、27歳の若さで亡くなっている。
その1914年から17年の大戦中に、ラヴェルは「クープランの墓」を、ドビュッシーは1915年に「白と黒で」を書き、カセルラも15年には「生への別れ L’Adieu à la vie」を作曲している。彼らに限らず、大戦への悼みを綴った作曲家、芸術家は、世界中無数にいるはずだ。
戦争でこそないが、100年後、パンデミックに斃れたこの世界に生きる芸術家の多くも、何らかの記憶をそれぞれの言葉で、直接的であれ間接的であれ、書き残そうと思っているに違いない。

Verba volant scripta manet
言葉は空を駆け、書かれたものは残る。
紀元前80年にカイオ・ティートがローマ議会でこの言葉を発した際、口伝こそ最も効果的な伝播方法、と現在とは反対の意図で熱弁を揮った。
音楽も粗方等しい道筋を辿ったのではないか。口伝でしか説明しようのない微妙な音の襞を、楽譜として記号化、画一化、統一化し、微細なニュアンスこそ捨て置きつつも一般化させて、より緩いスタンダード、許容範疇の音楽を、幅広く流布させた。その気の遠くなるような均一化傾向は、現在もなお続いている。
楽譜として基礎的情報を社会に知らしめた後、それぞれ個人が各々の流派に則り稽古を重ねて仕上げて、未来へと受け継いでゆく。邦楽など、むしろ稽古で直接学ぶ時間が重要視されていて、より古典的な音楽の在り方を守る。

12月某日 ミラノ自宅
中学時代からの友人が人知れず自宅で亡くなっていて、信じ難い。数日前から連絡がとれなくなり、妹さんが自宅の窓ガラスを割って入ると、既に布団で冷たくなっていたそうだ。人の一生など本当に見当もつかない。

大石さんと辻さんによるJeux再演ヴィデオ拝見。お二人の演奏する世界観が途方もなく大きく、惹きこまれ、そして圧倒された。巨大な波が我々を吞み込んでゆき、さらってゆくような錯覚すら覚え、ただならぬものを見た感覚だけが残った。僥倖という言葉はこのような時のためにあるのだろう。

対立概念のない作品を書くことは、当初、単細胞生物の生殖概念に近いかと想像していたのだが、実際は、分裂せずにただ変態を繰り返す。
変態や変形は、方向性を内包する一種の発展形態かとも考えていたが、分裂しない上に於いては、発展とは呼べないかもしれない。ただ変化してゆき何時しか別の個体となるだけ。
尤も、Jeuxでは対立概念こそ皆無であれ、サクソフォンと和太鼓は明らかに互いに緊張を高め合い溶解し、燃盛る一つの火の玉にも見える。なるほど、巨大な波の裡は、めくるめく灼熱に満たされていたのだ。
演奏会から帰ってきた父が、電話口で出し抜けに、「最近はクラシックより現代曲の方に、何というか、心が奪われる感じがするなあ」と言うので、吃驚する。

12月某日 ミラノ自宅
今はなきSIRINのフランコが亡くなり、形見分けで貰った黒の照明スタンドだが、2か月ぶりに漸く修理から戻って来た。政府がコロナ禍の景気対策で改築費用非課税などのボーナスを打ち出していて、イタリア中が日曜大工ブーム、建築ラッシュに見舞われている。
「いやあ、そのお陰で家の電気修理とか、とんでもない量発注されてねえ」と、遅延にも悪びれる様子すらない。当初の約束では3日後だった。
学校の給料請求書をジェノヴァ門裏の運河沿いの事務所に届けると、クリスマスの電飾が水面に無数に輝いていて、思わず見惚れる。学校からは、感染拡大につき、クリスマスから年始にかけて会食は極力控えるようメールが届いた。
ヨーロッパ感染拡大で、デンマークは映画館、劇場、ホール、公園、博物館を閉鎖。スイスは、ワクチン接種者のみが文化施設、レストラン、スポーツ施設への入場を許可する。
イタリアでもクリスマスには国民の5人に1人はイエローゾーンに入ることになり、行動制限がかかるだろう、とある。スカラ座バレエ団80人中12人陽性。そのうち9人はワクチン反対派、と大きく新聞に書かれている。最初の演目「ラ・バヤデール」の公演開催は現在のところ未定。

12月某日 ミラノ自宅
「揺籃歌」解説文を送り、新聞を広げると、子供たちへの大規模接種開始のニュース。子供の緊張を解すため、病院にはピエロが慰安に訪れたり、医療関係者がヒーローの着ぐるみで接種を実施したり、南部では小中学校の校舎で接種を実施、ともある。子供たちは怖がりもせず極めて順応、と褒め称えられている。
月末からはロンバルディアもイエローゾーンになる可能性あり、とのこと。
アルプスの麓のトレントでは、今日より喫茶店で着席のサーヴィスは禁止。

12月某日 ミラノ自宅
数学の才能は全くないが、この齢にして朧げに思うのは、音楽は関数のようなもので、それを微分したり積分したりして何かを描きたかったのではないだろうか、という極めて漠とした感覚だ。
ただ、それをコンピュータを使って計算すれば、自分が望むものとは全く相反するものになるのは明白だし、クセナキスの発想とも根本的にまるで違うから、結局は数学に置換えられる類ではないのだろう。
とは言え、最近、頓に自分から音楽を離して書くほどに音の確信を感じるのは、よほど音楽の才が欠落しているのか。

12月某日 ミラノ自宅
昼前、珍しくミラノに地震があった。何でも、アルプスの地殻変動が原因だそうだ。とても低く静かな地鳴りが10秒ほど続いただけだったから、てっきり近所の工事現場の騒音がここまで響いているのだとばかり思っていて、妙なものだと思っていた。地震のお陰で地下鉄や鉄道各社など確認作業のために軒並み運行停止となり、街中大混乱となったが、実質的な被害はなかった。
この所朝は決まって深い霧が立ち籠めて、午後は快晴になる。母に電話すると、その昔ノーノ観劇にミラノを訪れたときも、10月にも関わらず濃霧が酷く、気温は4度と寒かったのをよく覚えている、と言われる。

仕事をしていると、時々息子が上がってきて、ソルフェージュ視唱を見て欲しいと頼まれる。最近の課題はトリル、モルデントとターン各種を、予め決められた通りにリズムも音も正確に入れる練習で、やってみせてと言われても、こちらも間違えてしまう。
カスタルディ(Paolo Castaldi)の名曲「Solfeggio parlante 」や、シャリーノの「2台のピアノためのソナタ」のような初期作などにモルデントとターンが犇めいているのは偶然ではないし、たとえば、シャリーノで言えば、そのモルデントの音型を拡大していきながら、演奏会用練習曲や「夜の」のような、彼独特のピアニズムの探求へ繋がっていった。

閑話休題。ともかく、この凡そ感覚的ではない教材が、イタリアらしいソルフェージュのアプローチに繋がっているのを実感する。こう書くと、批判的に聴こえるかもしれないが、そうではない。皮膚感覚的でも観念論的でもなく、四角四面に生真面目に楽譜を読むことこそイタリアの伝統の礎なのだ。

12月某日 ミラノ自宅
誕生日でかつ普段からケーキを購う日曜日なので、息子にせがまれ、早朝、散歩がてらジョルジアに小さなホールショートケーキを頼んだ。オランダも今日から都市が封鎖され、明日からは、イタリアでもイエローゾーンにリグーリア州、マルケ州、ヴェネト州、トレント県の他、ボルツァーノ県が加わる。ロンバルディア州も風前の灯火。誕生日祝に息子から臙脂色の魔法瓶をもらう。

12月某日 ミラノ自宅
早朝、散歩に出かけると、トルストイ通り角の薬局には長い行列が伸びていた。クリスマスの家族の食事会前にPCR検査をする人たちと、引締めが厳しくなり生活に支障がでてきているワクチン反対派の人たちが、交ざり合っているらしい。

イタリアでは一日の観戦者数が4万4千人と過去最多となり、緊急事態宣言は3月末日まで延長となった。2月1日以降、これまで9カ月だったグリーンパス、つまりワクチンパスポートの有効期限は6カ月に短縮され、公共交通機関を利用するためにはFFP2マスクでなければならない。
NoVaxと呼ばれるワクチン反対派は、こうして愈々社会から疎外されてゆくのだが、強権をもって社会の締付けをこれだけ厳しくしてゆくと、なるほど世界大戦前後の社会格差とか人種差別は、こんな感じだったのかしら、と近現代史を追体験している心地にもなる。仕方がないので、貴重な機会だから、この状況は記憶にとどめておきたいと思う。

日本のポータルサイトのコメント欄など誤って目にしてしまうと、海外からの帰国者に対する暴言に暗澹たる思いに駆られる。幕府が鎖国したのは宗教上の理由のみならず、それを望む不可視の国民性も、それ以前に澱のように溜まっていたのかもしれない。
尤も、それは日本に限らず、「あの人はNoVaxだから」とか、「NoVaxは最悪よね、社会悪よね」と普通に会話するようになってしまったイタリアも、同じ穴の狢だと思う。
イタリアのオミクロン株は、二週間前は全体の0.02%だったが、14日間で2%と100倍に増大。

12月某日 ミラノ自宅
フォルテピアノの川口さんから、無事に初演を終えたとのご報告をいただく。
シューベルト4つの即興曲を弾く、壮大で儀式めいた感覚に近いものを覚えた、と書いてあって、思いがけず古典で一番好きな作曲家の名前を挙げていただき、身に余る光栄。

川口さんからいただいたお便りには、「この世の中は苦しみで溢れているけれど、音楽が人の救ってほしいと心から願いながら舞台に立てるようになりました」と認められていた。
「この世の苦難は永遠の安らぎに意味を見出すためにあって、その安息のために我々はこの苦しみの世界を生きているのだと思います」。
「アンジェレスの鐘に向かう旅路は、あらゆることを乗越え安らぎを得るまでの時間であり、終わった後の余韻はなんとも言い難い特別なものがありました」。

作曲者として冥利に尽きる思いなのは謂うまでもない。昨年ずっと胸に痞えていた棘のようなものを、吐き下す思いで総て書きだした後、文字通り空洞になった裡を抱えて、今年何曲か書き、それらはどれも似たようなものになった。
今年初めには般若さんのヴィオラ曲を、秋には川口さんにフォルテピアノ曲を、冬にはオーケストラ曲を書いたが、実は、作曲中いつも少し似た時間を過ごしていた。
殆ど特にこれといった感情もなく、何かに書かされるままに作曲し、気が付くと書き終わっていた。そうして、作品が自分をどこかに連れてゆくような感覚だけが、自分の裡に残滓していて、お前はまだ書き残しているだろう、と誰かが低く囁く声が聞こえる。
「揺籃歌」を書き送った翌朝の夜明け前も、空洞の自分に向かって、お前はまだ書き残しているだろう、と静かに、諭すように呟く声で目が覚めた。

何かに仕えているわけではないが、それに近い感覚も否定できない。出がらしになって役目を終えたら、頃合いをみて已めるよう達しが来るだろう。それまでは、黙って言われる通りに記しておこうと思う。
こう書いている文章すら、自分の裡の言葉ではなく、誰かに書かされている気もするし、前にも同じように書いた気もするが、単なるデジャヴかもしれない。

暫く前まで作曲が苦行だったのは、自らのレゾンデートルを探すために作曲していたからではないだろうか。自分である必要も、レゾンデートルをも放棄した時点で、身に纏うものがなくなって、すっかり軽くなってしまった。
尤も、自らを認めてもらうべく作曲したところで、裡が空洞ではどうしようもないだろう。

12月某日 ミラノ某日
昨日のイタリア新感染者数は7万9千人だった。今日は9万8千人で9.5%の陽性率。死者は136人。フランスは20万人、イギリスでは18万3千人。ミラノの若者の4人に1人が陽性と発表され、鉄道は機関士が軒並み感染して、交通機関全体の5%が運休となり、郊外の通勤客に深刻な影響がでている。ミラノ発の長距離特急も5%が運休。ミラノの北部鉄道では、運転手、車掌の12%が勤務出来ない状況にあって、100本の列車が運休を余儀なくされ、利用客に対して運行状況をインターネットで確認するように呼び掛けている。新しくバレエ団から4人の感染者が出て、スカラの「ラ・バヤデール」6公演キャンセル。「マクベス」最終公演で合唱団はマスク付きで歌うそうだ。

12月某日
新感染者数は12万6888人で156人死亡。生徒からも陽性になったと連絡が入る。
ロンバルディアの感染拡大のピークは2週間後くらいだと予想されているがどうなるのだろうか。1月4日に3回目接種の予定だが、息子の分も予約すべきか懊悩しているが、接種しなければ、何より日常生活に困難が強いられるかもしれない。
砂の城が、波にさらわれて少しずつ崩れていく。これでは経済活動など到底再建できない。

目の前の乳白色の風景のように、全てが雲を掴むようで、実体があるのかすら判然としない、意味があるのかすら分からない心地で一年を終えるのは、気持ちの良いものではない。そんな中で、茫と頭に浮かんでくるのは、せめても、生きられる分だけ精一杯生きなければいけない、という戒めにも似た心地か。
苦しみつつ毎日を生き抜かなければならない世界から、静かに見守り続ける平行世界に旅立った人たち、それはほんの親しい人であったり、世界中の見ず知らずの人々であったりするのだが、彼らを想い浮かべながら、自分の生きる意味は、彼らが生きた証を何らかの形で記しておきたいからであって、それ以上でもそれ以下でもない。

(12月31日ミラノにて)