楽園

越川道夫

「いや、世界は残る。…失われるのは、ぼくらのほうだ」
           エドワード・アビー『砂の楽園』
 
家と仕事場を往復して引き籠る生活をつづけている。決まった道を通り、決まった道を帰ってくる。誰が決めたわけでもないのに。このような日々の前は、少しはいつもと違う道を通って、とか、少し遠回りをして、とか考えたはずなのに、それをするのもすっかり億劫になっている自分に気付く。それでもと自分を励ましながら遠回りをしてみれば、塀のわずかな隙間という隙間からドクダミが顔を出し、花の咲く頃は壮観だった古い家は跡形もなく取り壊されて、そこは更地になっている。あんなに茂っていたドクダミもすっかり抜かれ、庭木も根こそぎ倒され、家であったはずの瓦礫の間に横たわっている。テニスコート脇の路肩の土が剥き出しになったところにアザミが覆い茂っていて、それを見るのを毎年楽しみにしていたのだが、そこも何の工事が始まるのかすっかり白い塀で囲われ踏み荒らされてしまった。街路樹はばっさり切られ、どういうわけか切り口がコンクリートで固められている。川岸の草むらを、草刈機が唸り声をあげて刈り払っていく。
 
なんだか痛々しい気持ちになってしまった。
ある時、借家の小さな庭をひと夏伸ばし放題に伸ばしたことがあった。植えたものも自然に生えてくるものも。ヘクソカズラやヤブカラシ、ゴーヤと言った蔓の類は庭木を覆い尽くし、その下で隠花植物たちが繁茂した。蝶がその上を飛び、ヤモリやヒキガエル、ニホンカナヘビが徘徊する。そんな庭の姿は、なんというか「楽園」だった。そうとしか言いようがない。
 
卒業した中学校の昇降口の脇に大銀杏があった。「あった」と書いたのだから、今はもう「ない」。その大銀杏は、太平洋戦争の前、その場所に高等女学校があった時からあった、と祖母に聞いた。祖母はその女学校に通っていた。校舎は焼けたが、樹は戦災を奇跡的に免れ、女学校だった場所に新制中学校ができても、樹はそこにあった。父や叔父叔母もその樹のある学校に通った。わたしがその中学校に通った頃は、大銀杏は昇降口の脇にあり、生徒はその樹に迎えられるようにして通学した。校舎は、どう考えても樹を避けるようにして建てられていた。大銀杏はその校舎に通う子供たちを見守るようだった。それからずいぶん時が経ち、近年、その中学校が小中一貫校になることになって全面的に校舎が建て替えることになった。しかし、もう人々が樹を避けることはなかったのだ。大銀杏は伐られ校舎は建てられた。
 
2015年に奄美で映画の撮影をしていた。9月の奄美は、本土では聞くことができない、キュアンキュアンというようなオオシマゼミの声で溢れかえっていた。奄美に育った島尾伸三さんが、幼い頃夏に外で友達と話していて、蝉の声があまりに大きくて友達の声が聞こえなくなることがありましたよ、と話してくれた。その蝉の声をマヤ(島尾さんの妹)はとても怖がっていました、とも。
そんなオオシマゼミの声の中で、私たちは撮影した。ラブシーンの撮影の最中、奄美の固有種のカエルが鳴いた。なんというか、ゲロゲロではなく、ブヒッというような声で。甘いラブシーンの中で突然響くその声は笑ってしまうような、ラブシーンの興を削ぐような声だったけれど、わたしたちはその声をそのままにした。やはり夜の撮影でカメラのレンズを一瞬、照明に寄ってきた巨大な蛾が覆ってしまった。さすがにNGになったのだが、そのことに南の島で育った老優は激しく怒った。これが島だ。本土で撮ってるんじゃないんだ。なぜ今のがNGなんだ。
音の仕上げをするダビングルームでも、わたしは何度か声を荒げた。なぜドラマの都合で、人間の勝手な都合でカエルや蝉を鳴かせたり、その声を消したりするのか、と。蝉は蝉の都合で鳴く。カエルはカエルの都合で鳴く。あの島で、何を聴いてきたのか。映画の撮影中、ヒロインが夜の縁側で島の唄を歌い始めると、森の闇の奥でコノハズクが鳴き始めた。一頻り歌い、鳥は鳴き続け、歌い終わるとコノハズクも鳴き止んだ。バラバラに有るものが一瞬唱和した、そんな瞬間もあったのだ。
 
夜、雑木林の横を通って仕事場から帰る。
その雑木林を抜けたところには縄文時代の遺跡があって、この雑木林がその時代ずっと続く林だということが分かる。夜になると樹樹は一層鬱蒼として見える。風もないのに波打ち、ざわめいて私語をしている。
彼らは彼らとして、そこに在る、と思った。
枝と枝の闇からコサギがこちらを見つめている。