音楽の気象と感染力

高橋悠治

コロナ・ウィルスの見えないはたらきのなかで 音楽のかたちが変わていくだろうか オーケストラやオペラのような多くの人の集まりは 疫病のときにはできないといって オンライン会議システム ZOOM でバラバラの空間とずれた時間をあわせて コンサートの代用にするというレベルではない もっと大きな変化が起こるのか 

世界にひろがる感染症のあと 今のような社会がそのままで 以前の姿にもどるのか そうでなければ ファシズムや 相互監視の息苦しい社会になるのか その兆しはじゅうぶん見えているが 方向はそれひとつではないだろう 混乱がつづくにしても いまの社会はいずれは崩壊して 予想をこえたかたちが現れてくるのだろうか

音楽を見えないはたらきと言ってしまえば これもウィルスのように感染力をもっている 楽譜や演奏の動画はその仮の現れで うごき 変化する振動は そのたびにかたちを変え はたらきも変わる

音のうごきを組織するのが いままでの演奏論であり 作曲論だった うごこうとする意志が 動きを作り その瞬間 音がはじまる その動きを制御している時間が音の長さになり リズムは数えられ 音符として見えるかたちで組み合わされるが 音符は音のはじまる瞬間と持続を管理する手段で 楽譜を通して 作曲し演奏する能力がある人間が 音楽を使うことができる そこに社会的な意味が生まれるなら その意味は いまの社会を管理しているエリートの意志にしたがっているとも言えるだろう

鳥が鳴き声で自分の領域を主張するように 人間の音楽も意識しないでも 社会を支配する者たちの意志を伝えてしまう 

と書いていれば 書いたことばが論理を組み立てて かってにうごいていくだろう ことばを意味や論理の支配から自由にすることは 無意味な音や文字の組み合わせにもどさなくても できるかもしれない 世界を映すだけでなく まだない世界を夢みる 意識にしばられない組み合わせが 浮かんでくるかもしれない

音楽でも 20世紀の実験とはちがう さまざまなかたち というか まだかたちにならない断片を とぎれとぎれに 撒き散らしておくほうが いいのかもしれない

ティム・インゴルドの区別を借りれば 音をつらねる線の物語から 響きという痕跡へ 意志をもった発音から 耳元に囁きかける 途切れがちの記憶の表面 その気象学へ