K君に会ったのは、連休前日のことだ。オリンピック騒ぎに嫌気がさして、明日から旅に出るという。数日前、打ち合わせで顔を合わせたIさんも言っていた。負のエネルギーが渦巻いている今の東京の雰囲気が嫌だから、九連休を取って沖縄へ行きます、と。
オリンピック開催地が決まった八年前からずっと、開催期間は東京から離れる、と言い続けていたのに、日に日に増大していくコロナウィルス感染者数をぼんやりと眺めるばかりで、具体的な脱出案を考えずにいた私は、開会式の日を東京で迎えることになってしまった。
K君と別れた後、書店へと足を運び、分厚い本を一冊買った。『パリ左岸:1940-50年』――いつも面白そうな本を読んでいるK君のお勧めなら、間違いないだろうと思った。
私が知らずにいただけで、この連休、東京を離れる知人は、決して少なくはないのだろう。取り残されたような気分になり、急に寂しくなった。改めて考えると、私はその四日間、何も予定を入れていないのだ。
片手にずしりと重いその本を開くと、最初のページには、ボーヴォワールが居室として使ったホテルの部屋の写真が載っていた。この本で週末の狂騒をやり過ごそう――そう思った。
朝、起きると、窓の外には真っ青な空が広がっていた。今日も酷暑となりそうだ。洗濯機を回し、部屋に掃除機をかける。録画しておいた園芸番組を観ながら、ベッドのシーツを取り替える。
インターフォンが鳴る。壁にかかった受話器を取り、配達員に伝える。荷物はそこに置いていってください、ご苦労様でした。届いたのは、花の植え替えに使う土。作業を始める前に日焼け止めクリームを塗らないと。そんなことを考えながら、アイス・カフェオレを作って飲んだ。
ふと目にしたスマートフォンのディスプレイに、妹からのメッセージが表示されている。
「午後、プールの後にそっちに行くそうです」
そうか、今日だったのか。夏休みに行われる水泳教室は私の部屋から通いたいと、小学生の姪が言っていたのを思い出した。返事をした記憶はないけれど、姪にとっては確定事項だったらしい。
今日二度目のインターフォンが鳴ったのは、私がその本を十数ページ、読み進めた頃。玄関の扉を開けると、真っ黒に日焼けした姪が立っていた。勝手知ったる伯母の部屋。自宅に帰ったかのような顔で靴を脱ぎ、洗面所へと手を洗いに行く。
私が後ろから声をかける。
「明日プールに行った後、またここに戻ってくるの?」
「うん、日曜日まで」
さらりと返されたけど、私に予定が入っているかもしれない、とは考えないのかしら。まあ、予定がないからいいけどね。
姪は、慣れた手つきで脱いだ制服をハンガーにかける。ブラウスとソックスを洗濯機の中に入れる。寝室の隅に置いてある彼女の荷物をまとめた箱から、Tシャツとレギンスを取り出して着替える。それから、くるりとこちらに顔を向け、眼を輝かせて私に尋ねた。
「かき氷、やっていい?」
氷かきを購入したのは、去年のことだ。本体はオレンジ色の熊の形。頭の上についたハンドルを回して氷を削ると、黒い瞳がキョロキョロと左右に動く。
それは、姪のためではなく、私自身のためのもの。運動が不足しがちなコロナ禍の暮らしの中で、せめて夏のデザートをカロリーの高いアイスクリームから、カロリーの低いかき氷に変えようと考えたのだ。
ガリガリという音とともに、カップの中に白い雪のような氷が積もっていく。
「オリンピック、始まるね」と私がつぶやく。
「いつ?」
「土曜日が開会式かな。テレビで観られるけど・・・・・・観る?」
ふたつのカップに雪山がひとつずつ。てっぺんからカルピスをかけると、かけたところだけ雪山は沈む。匙で掬い、口に含むとキーンと冷たく、そして甘い。
「観てみたい!私、オリンピック、観たことないから!」
この数年、オリンピックといえば、ドロドロとした不愉快なニュースばかりが流れてきた。正直なところ、ほとほとうんざりしている。そもそも私は国を挙げてのオリンピック開催には反対だ。私は私の理屈を以て、招致されなければいいと願っていたし、いまだって中止になって当然だと思っている。スポーツ観戦に興味がないということもあって、開会式も一度もまともに観たことがない。今年も録画だけして、必要に迫られた時に必要な部分だけ観ればいいと思っていた。
早々に食べ終えた姪は、二杯目の氷を削り始めている。
「じゃあ、土曜日、一緒にテレビで観ようか」
「うん!」
大幅な予定変更になってしまったなあ。いや、私には予定自体、なかったのだけれども。
退屈するはずの連休は、小学生との賑やかな時間に塗りつぶされることになるのだろう。
すべてがなし崩しに進んでいく。まるで今年のオリンピックみたいに。
私は長椅子の上に置かれた本に目をやった。ボーヴォワールよ、サルトルよ。それを開くのは、もう少し先になりそうだ。