言葉と本が行ったり来たり(13)『片づけたい』

長谷部千彩

八巻美恵さま

本日も猛暑。まだ七月だというのに、今年は夏の始まりが早かったので、既に残暑の気分です。前回のお手紙でご紹介いただいたイリナ・グリゴレさんの『優しい地獄』、先日亜紀書房の斉藤さんよりお送りいただけると知らせを受けました。拝読するのを楽しみに待とうと思います。

最近は時間を見つけては“真の”断捨離に精を出しています。断捨離ではなく、“真の”断捨離です。というのは、数カ月前、ふと、自分の所有している物を、ボールペンの果てまで、とことん見直してみたいと思ったのです。今の自分、これからの自分に必要なものは何か、また必要のないものは何か、この辺りで再考しておこうかと。ですから、目的は物を減らすことではなく、今の自分、今後の自分について考えること、となるでしょうか。

友人にその話をしたところ、こんなのが出ているよと一冊の本を勧めてくれました。『片づけたい』――古今の作家たちによる片づけにまつわるエッセイ集です。収められているのは三十二編。ジェーン・スー、谷崎潤一郎、柴田元幸、沢村貞子、内田百閒、向田邦子、出久根達郎、佐野洋子、澁澤龍彦・・・目次には錚々たる名が並びます。しかし、ページをめくっていくうちに、私は段々といたたまれない気持ちになっていきました。なぜかというと、いまいち、というか、全然面白くないものがいくつか混じっているのです。個別に読めばそれほどでもないのかもしれないけれど、アンソロジーとして集めると書き手の技量が露呈してしまう。うまい書き手に挟まれたまあまあの書き手は、読み手には救いがたいほど下手な書き手という印象を残す。どなたもエッセイの名手と言われている書き手なのに、アンソロジーって恐ろしい。私は勝手にまあまあの書き手の心情に思いを馳せ、針のむしろに座した気分で最後のページまで読み進めたのでした。

そしてもうひとつ、興味深いと思ったのは、退屈に感じたエッセイはどれも読後に同じ感想を――「この人は凡庸な人なのかも」という感想を抱くということです。日常生活では、突飛なことばかり考えるひとは困りものだけど、エッセイにおいては凡庸であることは致命的、凡庸と言われたらおしまいという気がします。なんだか怖い言葉です。と同時に、それもひとつの見方でしかなく、今の時代、誰もが経験し、誰もが感じる「あるある」「わかるわかる」を綴ったものが好まれ、人気を博してもいる。凡庸さって何なのかな、と考え込んでしまいます。

『片づけたい』の中には、もちろん面白いエッセイもありました。さすがだなと思ったのは幸田文。
“人は清潔が好きであると同時に、汚なくしておくのもまた楽しがる性質を、みんな持っている。清潔には慎みと静けさがあり、汚なさには寛(くつろ)ぎと笑いがある。”(「煤はき」より)――この一文なんて実に愉快じゃありませんか。
小学生の姪が、「本当にやりたいことは何なの?」と訊かれて、「少し散らかった自分の部屋でずっと本を読んでいたい」と答え、母親を唸らせていたけれど、確かに片づき過ぎていても落ち着かない、適度に雑然とした部屋に寛ぎを覚えることも事実です。

ちなみに、私の部屋でスペースを占拠しているのは大量の本。電子書籍での読書が増えつつあったのに、去年、オットマン付きのラウンジチェアを買って、また紙の本を読むようになりました。本ならば好きなだけ買って良いと言われて育ったため、その数は増えるばかり。つまり、もしも私が部屋を「片づけたい」と願うならば、本を手放すしかなく、本を手放すためには積読本を読み終えなければならない。 読書は私にとって部屋の片づけでもあるということです。そんなわけで今年の夏もダラダラと本を読み耽って過ごすでしょう。八巻さんはいかがですか。私の中では、八巻さんは荷物も本も増やさない人、というイメージがありますが。

2022/07/24
長谷部千彩

 

言葉と本が行ったり来たり(12)『優しい地獄』(八巻美恵)