八巻美恵さま
こんにちは。お元気ですか。いまホテルの一室でこの手紙を書いています。バルコニーに出ると、眼下に広がるのはエメラルドグリーンの海。ここで私が何をしているかというと、普段通り、コツコツと仕事をしています。ワーケーションというやつです。
ワーケーション――誰が言い出したのか、間抜けな造語ではありますが、旅先で仕事をするのが、私は嫌いじゃないのです。コロナウィルスが流行する前から、気が向くとノートPCを鞄に入れて東京を出る。私にはそれが「いつものこと」になっていて、旅先で書いた原稿は既にかなりの数にのぼります。場所を変えることの何が良いかと言うと、音。例えば、今回であればさざ波の音や鳥の声、異国の地であれば、飛び交う外国語を聴きながら考え事をしたり、文章を書いたりしていると、東京では煮詰まっていたものもスルスルとほどけるように進み出し、自室で机に向かっている時とは違う捗り方をするのです。
前置きが長くなりました。
ショートムービーの感想、ありがとうございました。八巻さんの言葉で綴られると、自分たちが制作したのに、とてもいい作品のように思えてきます(厚かましい?)。
ちなみにあのムービーの装花は、表参道ヒルズに店を持つ、フローリスト・越智康貴さんにお願いしました。香りを扱ったあの作品において、花は小道具に留まらない、登場人物と等しく重要な存在です。ですから、監督に「長谷部さんの書く世界を映像化したい」と言われた時、私はすぐさま「ならば、装花は絶対に越智さんで。越智さんじゃないと無理です」と答えたのでした。彼は私の知人でもあるのですが、色彩と造形に対する感覚がずば抜けている。私はそのセンスに絶大な信頼を寄せているのです。
その彼から、BLホラー小説を書いた、と聞いたのは、撮影の打ち合わせを重ねていた頃のこと。BL小説もホラー小説も読んだことのない私の頭には、大きなクエスチョンマークが浮かびましたが、越智さんが書いたものならぜひ読ませて欲しい、と頼むと、何週間かして、一冊の小冊子が郵便で届けられました。『少年椿』と題されたその冊子は、挿画も、写真も入り、薄いけれど製本もされたちゃんとしたものでした。早速ページを繰り、やや大きめの級数で印刷された活字を辿ると、30分もかからずに読み終わる。その短編はちょっと不思議な物語で、BL小説もホラー小説も読んだことがない私の頭の中には、やっぱり大きなクエスチョンマークが浮かびました。狐につままれたようなという表現がぴったりで。でも、いいなあ、と思ったのです。私もこんな風に、構えずに、書いてみた、作ってみた、という楽しさで本を作ることができたら、と。そして、思い出したのです。私自身も、子供の頃、藁半紙に自分でお話を書いて、挿絵を描いて、ホチキスで止めて冊子を作って遊んでいたことを。あの頃は、自分の作るものが他人に見せるに値するかどうかなんて、考えもしなかった。完成すると嬉しくて、ただ無邪気に、母の元に小走りで見せに行ったものです。
さらに面白いと思ったのは、越智さんが、その冊子を、街で声をかけてくれたら差し上げます、とSNSで告知していたことで、そんな方法で自分の作品をひとに届けることもできるのだとはっとさせられました。彼がそこまで深く考えていたかはわかりませんが、本は(リアルであれ、オンラインであれ)書店にならべるものという流通の固定観念に、私自身、毒されていると気づかされた一瞬でした。
越智さんとは年齢もだいぶ離れていますし、一緒にどこかへ出かけたりするわけでもない、たまにお茶する程度の付き合いですが、私にいつも刺激を与えてくれる貴重な知人であることは確かです。
そう言えば、この旅に、前回の手紙で紹介していただいたハン・ガンの『そっと 静かに』を持参しました。私が訪れたことのある韓国はソウルだけ。その全てが仕事の出張だったので、知っているのは空港とホテルとオフィスとレストラン。ですから、エッセイの中には、想像の及ばない情景がいくつも出てきました。でも、想像できない場所があるというのは、いいことだと思っています。これから知ることができる、知る未来があるということですから。
取り上げられている歌の中に、トレイシー・チャップマンの『New Biginning』がありましたね。
もっと良くなるという思いだけが/人生と道を変えるはず
夕暮れの浜辺でしんみりと、引用されたその歌詞を読みました。もっと良くなるという思いだけが、人生と道を変えるはず――。
今週末には東京に戻ります。それでは、また。
2022年4月20日
長谷部千彩