年の夜で

仲宗根浩

大晦日にジョン・コルトレーンの映画を見る。眠い。マイルス・デイビスの映画を見たときも眠かった。ジャズの映画は眠くなる。でもビリー・ホリデイのドキュメンタリーは眠くならなかった。最後にブルー・トレインが流れて目がさえる。最初に買ったジャズのレコードがこれだったか。アトランティックのものはラジオで流れるのをちょっと聴いたくらいだから中学生の頃こればっかり聴いていたからあたりまえか。

五勤二休の堅気の生活をしていると暦とは関係なく正月から仕事が始まり、三日にはスクールバスが走っているのを出勤時にみてアメリカの学校は始まるのが早いんだ、と今頃気づく。

去年、メールをしても返信が一切来ない近藤さんとLineでつながり、一月の半ばに平井さんが亡くなったと連絡が来る。肺炎を患っていたと聞いたのは八月か九月頃、昔の弟子仲間から。沢井門下である期間にいたものは渋谷のアートフロントプロデュースの事務所に先生の用事で行ったり、そのあとは中目黒のコレクタの事務所でアルバイトをして臨時収入を得ていた。結婚したあと食い扶持を心配したのであろう一恵先生からコレクタに行くように言われ、吉原すみれさんの楽器セットのアルバイトをするようになった。それからいきなり舞台監督をやらされ、田川律さんの下につくようになり音響、照明の人とチームのように動くようになった。学生時代からお筝屋さんのアルバイトで舞台装置、道具の事は知っていたがいきなりの責任ある立場を任されて、なんとか事故など起きないようひやひやしながら。
北九州の響ホールの音楽監督だった数住岸子さん、杮落としと翌年の音楽祭を手伝い、サルドノ・クスモの響ホール公演の舞台監督をやらせてもらった。それから筝の演奏会の裏方、たまに師匠の後ろで演奏し、舞台監督をしたりするようになった。
色々あり、やくざな生活から足を洗い大手CDショップの定職に就き子供を授かり、父親が亡くなったことで沖縄に戻った。戻った時にしばらくして平井さんから数住岸子さんが亡くなったとメールが来たのが最後のやりとりで、そのあとささいな意見の違いで一切連絡をとらなくなった。五年くらいの仕事の付き合いしかないけれどかなり濃密な時間だった。