しもた屋之噺(240)

杉山洋一

フランクフルトから乗り込んだ羽田行の機内は、愕くほど閑散としています。去年、日本に戻った頃は、オリンピックやらパラリンピックがあって、往来も随分活発だったのでしょう。外国人の入国も止められているのですから、仕方がありません。低く立ち籠める黒ずんだ雲のせいか、フランクフルト空港の滑走路もどこか寂し気に見えました。

ーーーーー

1月某日 ミラノ自宅
年末年始はただ仕事だけしていて、父子生活に於いては全く変化がない。
大晦日の夜半、寝かかった頃に、響き渡る花火の音で目を覚ました。久しぶりにミラノで年を越したが、何時ものように花火があちこちから打ちあがっていて、そのまにまに、赤く明滅する沢山のドローンがゆっくりとたゆたっていた。
こちらはすぐに寝てしまったが、息子は午前2時過ぎまで花火を見たり、友達とやりとりしていて、寝不足にて年始は一日不機嫌。
息子と二人で過ごした年始は、殆ど正月らしいこともしてやれなかった。本来、大根とはんば海苔だけのすっきりした雑煮を食べるところ、はんば海苔は仕方がないが、大根を探しに出かける時間もなくて、味噌仕立ての野菜のごった煮に餅をいれ、雑煮の代替とさせてもらう。こんな正月は初めてだ。

1月某日 ミラノ自宅
クリスマスカード、年賀状を多少でも日本の親戚に送ろうと思ったが、イタリアから日本の航空郵便が止まっているので、電話にする。カードの方が喜ばれると思っていたが、実際声を聞いて話込むのも良いものだ。まるで自分が小学生だったころのように、おばさんたちと他愛もない四方山話に花を咲かせる。日本でも、ヨーロッパ、イタリアの感染拡大は大々的に報道されていて、誰からもひどく気の毒がられる。
明後日に3回目接種を控えていて、それ以降副反応でどれだけ仕事が出来るかわからない。可能な限り仕事を進ませておきたい。

1月某日 ミラノ自宅
朝、自転車でガンバラ駅隣にある、トリブルツィオ養老病院に出向き、ワクチン3回目接種。感染爆発が酷いのでどれだけ混んでいるかと思いきや、殆ど待つこともなく済んでしまった。医者から今まで受けたワクチンの種類を尋ねられ、アストラゼネカとファイザーだと答えると、今回はモデルナだから三種の神器でもう怖いものなし、と太鼓判を押される。
ロンバルディア州は昨日からイエローゾーンになり、喫茶店のグリーンパスチェックも厳しくなった。イタリアの新感染者数は170844人で、死亡者259人。陽性率13,9%。前日の死亡者数は140人だから、かなり急激に死亡者が増加した。今まで繰り返してきた、あの重苦しい感覚を思い出す。感染者が増え、重傷者がそれを追ってきて、そして最後に死亡者たちが、我々の頭上を夜の帳で覆いつくす。感染が収束しても、死亡者はしばらく高止まりが続く。

BBC放送を聞きながら譜割りをしていると、専門家が世界中が協力して今年上半期までにワクチンを打たなければ、これからも我々はずっと新変異株に悩まされ続ける、と話していた。
恐らく、何時かは人間がこの感染症に打ち克つと信じているが、万が一それに失敗したなら、地球上から人間だけがすっぽりと抜け落ち、空気は澄んでゆき、温暖化も収まり、動物たちが新しい繁栄を遂げるのだろう。その時、我々が残した遺構を誰が発見し、解読するのだろうか。
どこかの時点で、世を捨て森に入った少人数の部族が、言葉も文明も失いながら細々の生き延びて、何時しか我々の社会を末端を、偶然見出すかも知れない。尤も、電力がなければ、何も読み取れないかもしれないが。
そうして、彼らは又新しい人間社会を構築してゆくのかもしれないし、その頃には人間より優れた知能が、どこかに誕生しているかもしれない。
そんな新しい「地球」に於いて、「音楽」は何某かの意味を持ち続けられるのだろうか。

1月某日 ミラノ自宅
ワクチン3回目接種後、発熱なし。多少腕に疼痛が残るが、想像より遥かに症状は軽い。
昨日、ミラノの北部鉄道は感染拡大により170人の運転士不足で300便運休。ミラノ市地下鉄バスは、350人病欠により減便。まだ学校再開前だと言うのに、既に街は機能していない。
マリゼルラに誕生日祝いを書き送ると、腰を打ってしまって骨折したという。慌てて電話をするが、想像以上の痛みだそうで、こういう友達からの沢山の励ましが何よりの薬よ、と話していた。
堺のFさんからメールをいただく。
「川口さんの奏でる調べと共に、今といういろんな意味で大変な時、旅路を、聴きながら歩みました。私は時折聞こえてくるリストのメロディが、あの鐘の音へ誘うピーターパンのティンカーベルの羽の音のように聞こえました。父の他界の際に、杉山さんにおしえていただき何度も何度も耳にを澄まして聴いた曲なのでとても印象に残っていて、自分の旅路のはずが、いつしか父の旅路のようにも感じられました」。

1月某日 ミラノ自宅
今日より市立音楽院授業再開。2月1日よりスーパーグリーンパスがなければ大学の授業はできなくなる。Mより、2月1日より学校で働けなくなる、と連絡あり。何故これほど意固地になるのか、良くわからないが、理由はそれぞれ少しずつ違うのかもしれない。No Vaxの人たちも、各個人はとても善良で真面目に違いないのだから、職場はおろか地下鉄にもバスにも乗れず、美容院にも行けず、食堂に足を踏みこむことすら許されない生活を、何の理由もなく、わざわざ望むはずがない。Y先生の新作遂に完成。

1月某日 ミラノ自宅
久しぶりの国立音楽院オーケストラの仕事が始まった。偶然にもコンサートミストレスのサラは息子と一緒に小学生の頃から劇場の合唱団で歌っていたからよく知っている。
前回の国立音楽院のオーケストラには、彼女の姉のソフィアがチェロを弾いていた。普段リハーサルで言語化することのない注文を、一つ一つ敢えて口に出して、説明しながら音を紡ぐ。低音の愉悦に、旋律が耳を傾け、その合間に、内声部が自らを滑り込ませてゆく。特に、モーツァルトのフルート、ハープの二楽章冒頭では、何度か様々な音を試した。
初めは穢れなき透き通った美しすぎる音だったが、敢えて、よりくぐもった、さまざまな複雑な感情の襞の絡んだ人間の声を望むと、不思議なもので、少しずつ音が変わってくる。弾いている彼らの顔つきも変わってくる。
会場で練習を聴いていたA曰く、聴きながら少し涙ぐんでしまったそうだ。皆それぞれに思うところがあって、こんな毎日のなか、それぞれ人生に疲弊しているのかもしれない。
あちこちのパートに感染者が続出し、その度に演奏者を入れ換えるから、裏方は大変な思いをしているに違いないが、自分はこの若者たちから、沢山の大切な事象を学んだ。
新鮮な体験でもあったし、自らの脳裏をあらためて整頓する作業でもあった。いつも大雑把に暮らしていることを痛感し大いに反省させられながらも、我々の社会において、やはり音楽は生き残ってほしいと思った。
休憩中家人より電話があり、平井さんの訃報を知る。帰り路、ジョルジアの前の大きな教会を通りかかると、夕暮れに、がらんがらんと荘厳な晩鐘をついている。

1月某日 ミラノ自宅
昨日朝8時前にトリブルツィオ養老病院に出かけ、息子のワクチン3回目接種。実は彼は注射が本当に苦手でとても緊張していた。息子は3回全てファイザー社製ワクチンを接種。未成年へのファイザー接種を優先するため、我々はモデルナを打つ。現在微熱で、解熱剤を与えるほどではなく、腕に疼痛。
平井さんから最後に届いたメールは12月31日で、ご自宅の住所を伝える簡単なメッセージだった。その前27日には、「お二人に深謝。編集していない本番録音は、一刻も早く」とメールをいただいていた。平井さんらしい、メッセージだった。
平井さんからご紹介にあずかり、フォルテピアノの川口さんに新作を書いたばかりだったが、あんな曲を書いた自分がいけなかったのでは、と落胆する思いばかりが身体に纏わりつく。
昨年の6月末、原題「Addio ai monti」をどう邦訳するか悩んで、結局「山への別れ」とするとお伝えすると、「素晴らしいタイトルですね。ありがとうございました」とだけお返事をいただいた。あのとき、すこし妙な胸騒ぎがしたが、気のせいだと思っていた。

1月某日 ミラノ自宅
町田の母に電話をすると、従兄の操さんから電話があったと言う。操さんは、母の誕生後、数日で亡くなった実父の兄の息子だが、操さんは知る由もないものの、奇しくも今日は母の実母の命日だった。目は不自由だが明るく闊達で生命力に溢れていて、目が見えているようにしか感じられない。超能力でも使えるのかしら、と内心おもっている。
チューリッヒで仕事をしているティートから電話があり、2月23日イラリアの誕生日に「河のほとりで」と「山への別れ」を演奏したい、と言う。2月20日に6日間だけ、試験をやりにミラノに戻る予定だが、偶然にも23日だけ試験がなかった。奇妙なこともあるものだ。

1月某日 ミラノ自宅
2年ぶりにフェラーリ邸で週末のプライベートレッスンをした。当時と全く何も変わっていない。そこだけ時間が止まったままで、不思議な感覚に襲われる。生徒もピアニストもフェラーリも皆2年前のまま、違うのは皆律儀にFFP2マスクをしているところくらいか。
2年前、武漢で始まったCovid 19がイタリアに上陸したところでレッスンは中断され、高齢のフェラーリを慮って、2年間そのままになっていたが、音楽を愛する建築家にとって、自分の家から音楽が消えたのは耐えられないと、彼の方からレッスン再開を要望してきた。この2年間で彼は2回Covidに感染し、そのうち1回はある程度酷い状況に陥った。今日来るはずだった7人の生徒のうち半数が、発熱や濃厚接触者の自宅待機、旅行不能で来られなかった。

1月某日 ミラノ自宅
この所しばしば思うのだが、兎も角元気で生きていれば、後はさほど大きな問題ではないのかも知れない。現在の世情を鑑みれば、息子たちの将来に不安が過るのは仕方がないが、それでも元気でさえいてくれれば、それだけで有難いと思う。
平井さんには本当にお世話になった。お世話になった分に比べて、こちらは全く恩を返せなかった。知り合ったばかりの頃、世の中の人はあなたよりずっと忙しいのだから、届いたメールは24時間以内には返事をしないといけない、とお説教を受けて以来、最後まで励まし続けて下さった。
まあ、もう随分お手伝いしたからいいでしょう、杉山さん、後は自分で頑張んなさい、そう言われている気がする。同じように感じている人は、世の中に沢山いるに違いない。他人のことは沢山綴っていらしたけれど、波乱万丈のご自分の人生について、殆ど文章に残されなかった。最後に直接お目にかかったのは、今から1年前、悠治さんの3回目の作品演奏会だったが、今でも、メールを差上げれれば、平井さんらしい、簡潔なお返事がすぐ届くような気がする。でも、何もお返事頂けなかったらショックだから、お便りする勇気がない。

1月某日 ミラノ自宅
毎日朝10時から夜8時半まで、オンラインで授業をしている。2月にやるはずの授業を前倒しして詰め込んでいるが、集中してやると見えてくるものも多い。
最近、学生に次のように説明して、非常に好評を得ているので、忘れないよう書留めておく。
自分の裡には、二人の人物がいる。一人は自分自身で、彼は社会に関わり、論理的に思索し、作業をする。もう一人は無意識の自分の分身(alter ego)で、彼は、直感的にものを捉える傾向があるから、非常に豊かな表現に長けるけれど、論理的でないから、勘違いしがちである。
ともすると、我々は自分自身と分身の棲み分けが上手に出来ない場合があって、そうすると、自分自身よりも、分身の方が優位に立つことになる。すると、我々の思考や思索は、分身に乗っ取られてしまう。
せめて対等の立場を目指すべきだが、我々演奏家などは、恐らく自身が6割で、分身が4割、もしかすると自身が7割で分身が3割くらいを目指す方が、舞台上でやるべきことが明確になるのではないか。恐怖に駆られて、何もわからなくなってしまう、などこの典型だ。
大脳生理学でどういわれているのか専門的な見解は皆目知らないが、我々音楽家に関していえば、頭の前と後ろで二つの人格を棲み分けるつもりでいると感覚的に分かりやすい。ちょうど耳はその真ん中にあるのだが、面白いもので、絶対に同時に両方の人格の聴覚を司ることは出来ない仕組みになっている。
頭の後ろ半分、つまり何となく頭の奥で音を聴いている感覚の時は、それは分身が脳の中で作り出した音を聴いている状態であって、外で鳴っている音とは実際あまり関係がなく、脳も外とは何ら関係を生み出していない。もちろん、外で聴こえている音と合致する場合もあるだろうけれど、それは感覚的に捉えているだけで、その音に具体的に自らが働きかけることはできない。
本人にとって、確かにその外界と関係ない音は聴こえているのだが、それは外から聴こえているのではなく、裡から自らが発している音を、まるで外から聴こえていると勘違いしているに過ぎない。
だから、敢えて耳を使わずに、常に頭の前半分から先の部分、例えば視覚などを使って、音を意識的に前方に投影することで、頭の後ろの分身に引っ張られそうになる音を、前に押しとどめておく。
音を聴くとき、どうかしらと自らに問い質すのもいけない。その隙に分身がお節介を焼いて、我々の耳を誑かしてしまうからだ。
最初から最後まで、頭の前半分と視覚だけを使って、自らの思索で音を紡ぎ続ける。指揮などその最たるものに違いない。何しろ自ら全く音を発せないのだから。
音を聴く行為は、あくまでも無理を強いるものであってはいけない。根本的に音を聴く行為は、少なくとも音楽に関する上に於いては、何らかの喜びがそこに介在すべきではないか。喜びを感じずに聴くと、根本的に音楽として成立がむつかしいだろう。

1月某日 ミラノ自宅
息子の眩暈が酷く、ベッドから起き上がれない。感染爆発の最中にある現在の世情では、誰かに彼の看病を頼める状況にはない。このまま体調が戻らなければ、彼を一人で放って日本に発つことは出来ないだろうが、それも仕方ないと腹を括った。彼が入院していた頃を思い起こせば、何という事はない。もう仕事は頂けないかもしれないが、学校などでなんとか食い繋げばいい。そう思うと急にすっきりした。もう昔のように、先が見通せる時代ではなくなってしまった。

1月某日 ミラノ自宅
マルチェロより、ワクチン反対派のMが2月以降も指揮クラスで働けるようになった、との連絡。大学卒業課程から外れた課程で指揮を教えているのが幸いした。彼女に早速連絡すると「物凄く嬉しい。いや、そんな言い方よりも、もっとずっとずっと嬉しい」、と何だか憑き物が取れたような、落ち着いた、柔らかい声が電話口から聴こえてきた。
ヴィオラの般若さんに、ティートからのお願いを伝える。
「私はこの曲を演奏する度、自ずと彼女を思うのですが、亡くなってからの出会いもあるのだとしみじみ感じています」。

1月某日 ミラノ自宅
朝7時、息子には生姜焼きをつくり、自分には豆腐と野菜を炒めて弁当箱に詰め、学校へでかける。
教室では既にジェノヴァから来たマルティーナとピアノのエレオノーラが待っていたが、もう一人のピアニストのMがくる気配がない。気を揉んでいるところにMの婚約者から電話があって、彼女はPCR検査で引っかかり、再検査のため学校近くの薬局に並んでいると言う。ワクチン反対派のMは、48時間ごとにPCR検査の陰性証明を提出して、1月末までは学校で仕事が許可されるグリーンパスが発行してもらっていた。
彼女に電話をしても通じず、「今は気分が酷くて、到底話せる状況じゃないの。ごめんなさい」とメッセージが届いた。それでも何とかレッスンを続けていると、昼前になって、事務局のシルヴァーナが慌てて教室に駆け込んできた。入口にMが居座り泣きじゃくっているが、どうしようもないと言う。代りのピアノを弾いてくれていたマルチェロと二人で降りてゆくと、果たして入口の机に突っ伏して、Mが3歳の少女のようにさめざめと泣いている。「大丈夫かい」と声を掛けた瞬間、糸が切れたように、突然ギャアともキェとも言えない奇声を発して、石床に大の字に伸びてしまった。
ひきつけのように躰を硬直させて余りに大声で叫び続けるものだから、学校中から人が集まってきたが、皆遠巻きにして、憐憫の眼差しを落とすばかりだった。
3人がかりで何とか彼女を抱き上げて、事務局の椅子に座らせるのに15分はかかっただろうか。先に電話をもらった婚約者に電話をして、迎えにきてもらうことになったが、彼がいなければ、救急車を呼ぶところだった。
彼女の野太い断末魔の叫び声はいつまでも耳から離れず、こちらの精気まですっかり抜き取られたようであった。一日中その声に打ちのめされていたが、夜になって、何とも言えない怒りが沸々と湧いてきた。誰に対してでもない、無力な自分たちに対しての怒りかもしれないし、パンデミックへのやりどころのない怒りだったのかも知れない。
我々はどこへ行こうとしているのか。Mは何故そこまでして意固地になっているのか。何故我々はワクチン反対派をそこまでしてつるし上げ、社会から疎外しなければいけならないのか。
Mからすれば、No Vaxは人権蹂躙を糾弾する天命なのだろうが、この感染爆発中、旅費と時間を費やして、ジェノヴァやトリノ、果ては遥々ウィーンからやってきた生徒たちに対して、何と説明すればよいのか。
尤も、Mからすれば、彼女の人生は48時間毎に区切られているようなものに違いない。48時間以上先の彼女の人生は、現在恐らく何も見えないはずだ。どれだけの緊張を強いられて日々生活しているかは想像に難くない。到底自分の生活以外顧みられる状況にはないのだろう。
彼女と同じように、48時間毎のぎりぎりの日常を送る人々が、ミラノの街中の薬局でPCR検査をするべく早朝から夜まで長い行列を成している。

1月某日 ミラノ自宅
Mが学校の石造りの床に放心状態で身を投げ出したとき、集まってきた同僚たちの様子もまた、何とも言えないものであった。憐れんでいるようでもあり、蔑んでいるようにも見えた。Mは自分は犬以下の存在だ、と公言して憚らない。犬は未接種でも喫茶店にもレストランにも入れるが、自分は拒否されると言う。2日毎に陰性証明を出してワクチン接種者よりもずっと安全なはずなのに、わたしは、病原菌の塊りみたいな扱いを受けている、という。そんな存在でありながら、もし彼女が実際に感染してしまえば、状況は途端に逆になる。快復した証明書でスーパーグリーンパスが発行され、突然人並みの生活が営めるようになるのである。実際、先日罹患した生徒は、今は寧ろ強気でいられる、妙な感じだと言っていた。
そんな混沌とした中にあって、結局Mはまだ陰性だった。だが、SMSで国から送られてくるはずの陰性証明がなかなか届かず、学校の玄関で泣きじゃくり、絶望し、破綻してしまった。本当に気の毒ではあったが、ただ、自分は高い授業料を払って学校へ通ってくる生徒たちを優先に考えざるを得ない、とも思う。これからどうなるのか全く分からないし、自分がどうすべきなのかも、良く分からない。
社会の分断は、確実に一線を越えてしまった。昔のように、好く回る油のさされた社会の歯車はもう戻らない。逆に言えば、今まで見えていなかった綻びが、この機会に全て炙り出されて、白日の下に姿を晒しただけかもしれない。我々が見たくなかったものに、否が応でも対峙せざるを得ない状況に置かれているだけなのかもしれない。
ロンバルディア州の感染拡大は確実に下降傾向へ近づいている、オレンジゾーンにはしない、経済は止めない、とミラノ市長が強気の発言。つい先日まで毎日イタリアの死亡者数は400人を超えていたのだが。

1月某日 ミラノ自宅
Mからメッセージが来て「もうずっと前から戦い続けてきたの」と書いてある。それに対し、「自分はずっと負け続けてきたから、未だに何とかイタリアで生き延びているのだと思う。もし身体的な理由でワクチンが打てないのなら、その証明書を作るべきだし、そうでないのなら、柔良く剛を制す、せめて負けたふりをしたらどうか」と返事した。
しかしながら、Mからは続いて、「今、われわれが立ち上がらなければ、絶対に後悔するわ、永遠に自由が失われるのよ」、と頑なな長い文章が送られてきて、返答に窮した。
人権蹂躙とワクチンは、ある程度別問題として考えなければ、これから先どうやってゆくつもりなのか。
やはりこの国のこうした権力観の強靭さを見るにつけ、過去のある時期、ムッソリーニのような政治家が現れ、それを迎え入れる大衆も存在し、それを倒すべく内戦を繰り広げた、パルチザンの生まれた国であったのを思いだす。
敗戦後、我々日本人は彼らとは全く違う形で現在まで歩んできたように見える。尤も、イタリアは敗戦国ではなく、正確には戦勝国なのだけれど。

1月某日 ミラノ自宅
昨日は朝6時に自転車を飛ばしてインガンニ駅の裏にあるCDIでPCR検査を受ける。帰りに新聞を買いに寄ったキオスクで、思いがけず、息子の小学校時代の親友、グリエルモのお母さんに再会。互いに、目深く帽子をかぶり、マスクで顔の半分は覆われているから、誰だかさっぱり分からない、と二人で笑う。
10時から遠隔授業が始まるが、家から授業が出来るのは本当に助かる。庭を訪れる鳥を眺めながら、授業が出来るのも精神衛生上とてもよい。この所、赤い腹をした5センチほどの小鳥が、こちらが朝クルミを出すのをずっと待っている。今朝は、久しぶりに顕れたキツツキが、嘴で樹を軽くつつきながら、上からゆっくり降りてきた。しばしば15センチくらいの、見事な緑色のインコだかオウムのような鳥も現れるのだが、どこからか逃げだして野生化したのか。見かけによらず逞しそうに見える。
こんな毎日を積み束ねていきながら、前向きになろうする気持ちと、困憊し疲弊しきった精神が、一日の間に何度も入れ替わり交互に訪れる。夕刻、CDIから陰性証明が届く。

1月某日 フランクフルト行機内
タクシーは朝の7時45分に呼んであって、7時半頃息子は眠そうに起きてきた。多少不安げにも見えるが、大丈夫だろう。
リナーテ空港での搭乗手続きは思いの外簡単に済んだ。あとは無事に日本で仕事ができて、予定通りイタリアに戻れるよう祈るばかりだ。
快晴のミラノ上空、左手後方に、小さく中央駅をみる。そのずっと奥、我が家の方向をじっと見つめる。ひときわ高い建物があるから、あのあたりかも知れない。
マッタレルラ再選決定。イタリア国民の期待に応える、とある。マッタレルラのスピーチを新聞で読んで、涙がこぼれそうになった。感動したからだろうか。それとも2年前から今までの時間を、無意識に想い返したからだろうか。
最近、時世のせいか、音楽をするのは「希望」を表現するためのように感じられる。特定の誰かへの「希望」ではなく、「希望」そのものを顕すため、「希望」そのものを消し去らぬため、我々が「希望」を失い枯渇しないため、音楽をやっている気がする。
音楽など社会には全く必要ないが、しかし音楽がない人生を我々が歩むことなど、出来るのだろうか。
一面純白の雪を頂くアルプスが、真っ青な空と耀く朝日に映える。

(1月31日 羽田行機中にて)