春節に思う~ゴー・ティック・スワン/ハルジョナゴロ氏のこと

冨岡三智

今年は2月1日が春節。1998年にスハルトが退陣し、2000年1月に中国文化禁止令が破棄された。それから22年、今の大学生は華人文化が禁止されていた状況をもう知らないのだなあとしみじみ思う。

春節にちなみ、今回はハルジョナゴロ氏(1931-2008)のことについて少し書き留めておきたい。氏は華人系ジャワ人で、スラカルタ王家から最も高い称号=パヌンバハンを授けられた最初の華人である。一般的には、氏は1957年にスカルノ大統領の下で、インドネシア各地の模様や色を融合させて国を代表するバティック・インドネシアを作り上げたことで知られている。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校からはバティックとクリスの分野におけるウンプーempu(マエストロの意味)に叙せられ、ジャワ芸術の保護発展に尽力した。

2001年8月17日、氏は国からサティヤルンチャナ勲章を受章した。本来なら大統領官邸で授与式に臨むところだが、氏はスラカルタの芸術大学で授与されることを希望して許され、10月13日に大臣がスラカルタに赴いて授与した。実はこの事情については芸大教員・ルストポ氏の著作で知った。ちなみにこの時、私は日本に一時帰国中だったのでこの受賞式には出席していないが、後に氏からその授与式の模様のビデオを頂戴したので、今それを確認しながら書いている。

この授与式でのスピーチにおいて、ハルジョナゴロ氏は、叙勲決定通知書面の宛名はKPT(=カンジェン・パンゲラン・トゥムングン、当時のスラカルタ王家からの称号)ハルジョノ ゴー・ティック・スワンであり、当局の方からは名前を再三確認されたが、二重国籍時の名が「ゴー・ティック・スワン 別名 ハルジョノ」であって一致していること、自分自身はインドネシア国籍の方を選択したが、この時インドネシア国籍を選び別名を名乗った者はごくごく限られていた、と語った。国籍についてだが、これは1960年にインドネシアと中国の間で二重国籍を解消するための条約が批准され、どちらかを選択しなければならなくなったことが背景にある。実は、このスピーチは大臣からの祝辞の後に行われているが、大臣自身はそうは呼ばず従来通り「KPTハルジョナゴロ」と呼び、この映像のサブタイトルもそのようになっている。

これ以降に出された論文や本では―ルストポによる氏の伝記(2008)など―では主としてゴー・ティック・スワンと呼ばれるようになっている。この受章の機会をとらえて二重国籍の話をわざわざ語ったのは、取り戻した華人としてのアイデンティティと、しかしインドネシアのために努力する方を選んだ人生だということを示しておきたかったのだろう。