「図書館詩集」8(この海岸にかつて栄螺が住んでいたんだって)

管啓次郎

この海岸にかつて栄螺が住んでいたんだって
さざえさんはここらで生まれたんだって
冗談ではないんだよ
ももち(百道)の海岸を散歩しながら
町子さんは磯野家を考案した
そのはるか以前には百済人もいただろう
やがて唐人もオランダ人も通過しただろう
おなじ道だって百通りに体験される
ここは交通の町、港あり
物資のメタボリズムをよく計算して
地球をレース編みにしてゆく
「驚異と怪異」ばかりを見て
頭がふつふつとおかしくなっているようだ
人間のようなかつらをかぶったさざえが
二足直立歩行で目の前を横切っても驚かない
世界を編みなすいろいろなかたちの生命が
少しずつ誤訳がつけいるとでもいうように
少しずつかたちを変えてきた
魚ひとつとっても
人の顔をした魚や
牛の頭をもつ魚や
猿の上半身をもつ魚がいて
まことに賑々しく次々にご来店される
ああなっては水の中に住めないどころか
どこにも住めない
生きている世界には住めない
となると死の世界のほうが
概して自由度が高いともいえそうだな
死において最終的に
あるいは最初的に解放された
自己か非自己を見出すとでもいうか
そうだよ昔はここらも湿地帯だった
その中の干上がった砂地の上で
モンゴル兵たちと地元の兵士が戦ったそうだ
いやいやの戦いだったろうな
何を賭けてか誰に命ぜられてか
兵士の生命は乾いた涙よりも軽い
(命令する人間は気楽でいいよ、ブツブツ
私ら一般兵が、ブツブツ
なぜ言葉も通じない相手と、ブツブツ
戦わなくてはならないのか、ブツブツ)
しかもモンゴル兵といっても草原から
はるばる来たわけではなく
半島の衛星国の兵士だったわけだろう
また別の時代だが武将というか
諸々の臣たちがこのあたりで
Vtacaxôyôをして無為に日々を
すごしたこともあった
「鵜鷹逍遥」といってね
どちらも鳥を使ったつれづれの遊び
飼いならした鵜に魚をとらせ
飼いならした鷹に小動物を追わせて
それで楽しむのだ、殺害を
まこと人ほどの害獣はなし
私を驚かせるのは『エソポのファブラス』
ESOPONO FABVLAS (1593) 天草ローマ字版
なんというみごとな書物だろう
『伊曽保物語』といってね
自分の人生もそのころから
Fablesとしてやり直せるなら楽しいだろう
さしあたって物語に逃げるなら
さしあたって物語か語り手になれるなら
この男エソポいと見苦しく
言葉もよくできないので
ふさわしい仕事がないといって
牛馬の世話係をしていたそうだ
(それ自体は良い、おもしろい仕事
動物相手の仕事は人間相手よりずっといい)
いずれにせよ私はエソポに遠くおよばず
物語を知らず知恵もなし
生きる術もなく仕事もない
さてさて学問でも修めるか
そこで読んだのは「狐と狼の事」

 有狐、子を儲けけるに、狼(おほかめ)をそれて名付け親とさだむ。
 狼承けて、其名を「ばけまつ」と付たり。
 狼申しけるは、「其子を我そばにをきて学文(がくもん)させよ。
 恩愛のあまり、みだりに悪狂ひさすな」といへば、
 狐「実も」とや思ひ、狼に預けぬ。
 (『伊曽保物語』下巻の第10)

ばけまつ!
なんと愛らしい名前でしょう
しかし狐も狼も犬といえば犬なのに
狐がそこまで狼を恐れるのはかわいそうだな
いっそ犬になってしまえば犬どうしの交友は
チワワとニュー・ファウンドランドだって
仲良くさせるのに
思うにこの物語の狐と狼は
人間の言葉を話すようになったのが敗因か
それで不平等が起源する
このあたりのことはよく考えるんだ
言語はどう使うのがいいのかって
ぼくの大きな悩みは
現実を取り逃してしまうことだった
たとえその場に居合わせても
ほとんどのことはただぼくに関与せず
過ぎてゆくのだった
あまりにあまりに少なくしか
気づくことも知覚することもない
それを言い出せば
現実を知ることはできない
すみずみまで知ることはできない
ごく粗いスケールの描写ができるだけ
そして知覚を少しでもつなぎとめて
おきたいと思うなら
言語は避けられない
どれほど現実を知っても/知らなくても
言語はいわばすべてを「均して」くれる
心の手に負える程度にまで
ひどく単純化してくれる
言語にはまた一定水準の
熟達がありうる
だから
言語学習にうちこむことには
一定の実用性がある
簡単に確実に生きるために
ぼくはエソポに話しかけたくなった
いやね、どれほど話しかけても答えはないが
物語は物語に転生するし
文字は文字を反復する
誤訳だっていわばそれは接木の一形態で
根付いて成長をはじめるならそれでいいわけだ
ぼくがどれほどラ・フォンテーヌを好んでいるか
きみは知らないでしょう
「フランス文学の絶頂はラ・フォンテーヌとランボー」
とミシェル・ビュトールはいっていた
そしてラ・フォンテーヌはエソポの模倣者
それを別の言語において模倣することもできるだろう
たとえばこんなふうに

 狼は少し有名になりすぎた
 その土地の羊たちのあいだでね
 これからは頭の勝負
 そうだよ、おれが羊飼いになってやろう
 そんな格好をして、ぼろぼろのコートも着て
 適当な棒を杖にして、バグパイプも準備
 帽子にはちゃんと書いておいた
 「おいらはギヨ、羊飼い」
 こう姿を変えて
 杖に助けられ二足歩行で
 偽者ギヨは羊に近づく
 そのころほんもののギヨは
 若草にねっころがってお昼寝の最中
 犬も寝ている、バグパイプも寝ている
 羊たちも大部分がうとうと
 しめたと思った偽者は
 羊飼いを起こさないようにして
 羊だけを連れ去るために
 言葉を使おうと思った
 仮装だけでは足りない気がして
 これが失敗のもとでした
 狼には羊飼いのことばを
 まねることができなかったのだ
 狼の声音が森にとどろき
 みんなが一斉に目をさました
 羊たち、犬、ほんものの羊飼い
 あれあれ、みんな大騒ぎ
 ところが偽ギヨ、コートを着込んだばかりに
 足がもつれて逃げられない
 杖もバグパイプもじゃまになり
 身を守る機敏さを失った
 ああ、ああ、狼は
 狼として終わることができなかった
 そういうことだね
 悪巧みは必ずしっぽをつかまれる
 「馬脚をあらわす」というが
 「狼尾をあらわす」という言葉はない
 言葉知らずの狼に
 人間のまねはむりだった焉
 身のほどを知れよ焉
 狼は狼らしくするしかない焉
 そしてギヨはバスク人のように
 ユタ州かチリに移住するしかない
 (ラ・フォンテーヌ『寓話』、岩波文庫の今野一雄訳を参照した)

ともあれ教訓を得て、ぼくは
狼としての自分を偽らないことにした
狼として生まれたなら狼として死ぬ
ただそのごまかしをなくすための一生だった
そんなところでどうかな?
けれども人間世界は無情の辺土
古来、人間世界を追放された人間を
人狼として遇した歴史あり
なんらかの罪を犯して
人でなしと見做されるようになれば
人々は人狼を思うがままに打ち殺す
ざんにんなことだ
事実であれ想像であれ
歴史も物語も血まみれだが
さしあたって
この街はいい街
地形が好きなんだ
今日はこれから海沿いをぐるりと歩いて
海ノ中道まで行ってみようか
なんという奇跡的な地形
と思っていたらあれあれ
なんだこの人工島は
湿原も干潟も省みず
海に具体的な蜃気楼を出現させたのか
そこに住むつもりかニンゲンばかりが
海の生きもの空の生きものを追放し
架空のニンゲンばかりで自足して?
恐ろしいことをするなあ
信じられない愚かさ
居住の冒険主義はやめよう
海に人は住めない
海に支えられて
陸でつつましい村を作ればいい
「シティ」はいらない
すべて開発=利益の計略
浅はかな未来像
せめて作ってしまったこの人工島を
もういちど土地の鳥獣虫魚に返して
コンクリートの皮膜を剝がして
あめつちの論理に百年ほどまかせて
リワイルディングを生きさせてほしい
いや、冗談ではないんだよ
それ以外には未来はないんだよ
ニンゲンにとっても
千年の門をもつ都会なら
千年を過去の生態系に探るべし
過去にこそ未来あり
その逆説のみが生命を救う
きわどく細い砂洲を歩いて歩いて
島に向かえばそこで金印が見つかったというので
幽霊の群衆がさわいでいた
金印を落としたという者も
その金印を使ったという者も
よく探せばどこかにいるのかな
死後の魂として
歴史とは幽霊の発生装置
ダンテの地獄も
チリの露天掘りの銅鉱山も
いまここに広がっている
ただ見えないだけ
陸繋島は海の犬
つながれて海を見ながら
潮のような大声で吠えている
島にむかって
半島にむかって
ニンゲンよすべてを海に返せよ
海と陸とそのひとつらなりの生命に返せよ
島の頂上にはその祈りを
なんとかかたちにしようと
バリ島のバロンの仮面をつけて
ひとり舞う少女がいた
天気雨の夕陽の中で
ニンゲンであることをやめた
彼女の舞がニンゲンを批判する

福岡市総合図書館、二〇二三年三月二一日、雨