図書館詩集2(犬よ吠えろ)

管啓次郎

犬よ吠えろ
黒犬よ吠えろ
小さな黒犬よ吠えろ
魔を払え
でもこの犬はおとなしく穏やかだ
何もいわずに半島からここまでついてきた
カフーナの橋を虹のようにわたって。
本部半島は山を崩していた
緑が炎のように燃えて
悲鳴をあげていた
山は岩
海には珊瑚の岩
石垣にはぶどうさんご
潮溜まりには非常に細い触手をもった
小さな蜘蛛のようなヒトデがたくさんいる
海の星よ
やわらかい小さな星よ
五本の触手という体制を選んだとき
きみたちはどんな飛躍をなしとげたのか
空を離れることを選んだとき
どんな堕落をなしとげたのか
ひとでだけが知ることがある
かれらだけが摑んだ
世界の把握がある
北風に吹かれた海面が
正午なのにきつね火のようにちらちらする
その水面下であざやかな青の小さな魚たちが
かげろうのように踊っている
かたちを見定めることができないので
まるでそれは色彩のたわむれ
色とりどりの魚は浅い礁湖のかけら
岩礁には外海からの大きな波が打ち寄せ
さわやかに砕け散る
そばの集落はフクギ並木に守られて
タイフーンの名残にいる。
心細さ。
小道を泳ぐように蝶がわたってゆく
長い棘のある貝殻を
魔除けとして並べた家には
黒いマーヤーが住んでこっちを見透かしている
木の枝にはいくつも
マーヤーが吊るされている
私が忘れた前世を
この猫は覚えているかのようだ。
おや、この木はモクマオウ
大木だが土地の樹木ではない
カリブ海の島々でもおなじみの木を
アメリカ人たちがもってきて植えたらしい
その細い葉はいくつもの節に分かれ
節で折り、切り離したあと
またその節でくっつけることができる
どこで折れたか当ててごらん
そうして遊んだのは子供の日の思い出。
海岸の子供はどこでもおなじ遊びをする
海も島も太陽も大洋も
それ自体悠久
ただ人間の経済によりその姿を
大きく変えられるだけ
見方が変わるだけ
人の世が七十年ならそれは
モクマオウにとって一瞬
木、木、木魔王
金星の回転にとっても一瞬
きみがどれほど嘆いても
人間たちの破壊を止められない
水をかけてもらうために
おとなしく列を作って待つダンプトラックは
ただ破壊を目に見えるようにする
黒い陰険なケルベルスのようなものだ
車輪自体には魂も意志もないが
土地の子供たちが何人もここで轢かれたという
「轢」という字のこの悪魔的なアイロニー
(だって「車」の「楽」?
なんという思想だ、それは)
trigger happyという非常にイヤな熟語を思い出す
世界がおびやかされて
舗装道路と走行の快楽が
島の野をずたずたに分断する
止めたほうがいい、こんな生き方は
止めたほうがいい、地表のこんな地図化は
それから本部町営市場のそばで
氷ぜんざいを食べて体を冷やし
ぶらぶら市場を歩いてみると不意に
その黒い犬がいた。
ひんやりとしたコンクリートの床に寝そべって
人の世間に関しては
猫のように無関心に
知らない名で呼ぶと視線をあげて
こちらをうかがうのだ
こんな視線の作り方こそ人と共生してきた
犬の特徴
このかわいいケルベロスは黒のブリンドル
胸は白
去年の夏死んだぼくの犬に
うりふたつなので驚いた
psychopompus
魂の転生か魂の見方の複製?
その子を呼ぶと、やってきて
どこまでも後をついてくる
いったいどういうことだろう
なぜこんなことが起きるのか
神話は反復
神話はおなじ神話が反復して語られ
神話のその内容は反復して起こる
時を超え
土地を超えて
何か人間の世界把握の
非常な根源にふれている
何かがついてくるなら
ついてくるそれが犬だ
どんな姿をしていても
ついてくるものが犬なのだ
私が未知に迷い立ち止まるたび
何か光がさしてくるような
小さくて意味があるとも思われない
出来事が生じるのだ
するとどちらの方角にゆけばよいかもわかる。
そのときにも犬はまだ吠えている
思考の糸はことごとくもつれ
安易に断ち切られる
(犬よ吠えろ
黒犬よ吠えろ
小さな黒犬よ吠えろ
魔を払え)
帰ってきた
カフーナが帰ってきました
カチーナとして帰ってきました
那覇のここはかつての海岸
「仲島の大石」という岩が植物におおわれ
緑におおわれ
それ自体が一種の複合的な存在となっている
ここにかつて吉屋チルーありき
世に隠れなき才あふれる遊女
これは伝言だが疑う理由もない
かつてたしかにそんな若い女がいたのだろう
花のように美しく
鳥のようにかしこく
そして
かつていたものが今いないという保証はない
夢のように脈絡なく
現れたり消えたりする
夢のようにくっきりした
鮮明この上ないvisionだ
visionが分割されてdi-visionになる
joyが分割されてjoy di-visionになる
あらゆる思想や思考が二重化される夕方
橋をわたると闇が迫る中を
大蝙蝠が飛んでいるのだ
果物を食べて闇へと
そのゆたかな糞を落としていく
地面が染まっている
エレクトリック・ギターの空のハードケースが
墓標のように立っている
蝙蝠が聞く音は
私を構成する音とはどれほど異なっているだろう
この亜熱帯の夕暮れを飛びながら
かれらはどこへ行き
どこから帰ってくるのか
行って帰ってくることができるところなら
それは地獄ではない
あるいはただ特別な加護がある者だけが
この往還を達成するのか
誰に守られて?
この緑の島には
場違いなオレンジ色の牝熊(ウルサ)がいる
“I didn’t steal your bicycle!”
と英語で怒鳴りながら傍目もふらずに歩いている
ぼさぼさ髪の垢じみた老人がいる
徒歩旅行の道連れとして
きみはいずれかを選ばなくてはならない
選んだら出発だ、もう猶予はあまりない
「砂原の上にはいちめんに、ふくらんで
火のかたまりが降っていたが、ゆったり落ちてくるさまは、
風のない日に降るアルプスの雪のようだった」(ダンテ『神曲』三浦逸雄訳)
ここでは赤い小さな花が
熱い雪のように降っている
それにハイビスカスが
紅と黄と白のあでやかな色で
太陽に礼拝している
ぼくと老人のうしろを
オレンジ色の牝熊がついてくる
一緒に歩こう
A&Wとはagriculture and worship
もっと農耕暦を守って生きることだ
そこに鉄をもちこまないことだ
鉄は不平等のはじまりだ
火薬や船に翻弄されないことだ
そう誓いつつ
ぼくらは歩いていこう
すると花が降り
不在の雪がうっすらと降りつむ
希望のように
悲嘆のように

沖縄県立図書館(カフーナ旭橋)、2022年10月13日、晴れと薄曇り