小さな牛たち

管啓次郎

動物という呼び方自体のことも考えておかなくてはならない
「動く物」とはあまりに即物的で
そこにはアニマをもつものがアニマルになる程度の
生気論すらないように思えた
すると誰かがこう思い出させてくれた
日本語の「もの」にはそもそも物質を超えた次元がある、と
また「物」という漢字を見るとおもしろい
つくりの「勿」(ぶつ)は刃が欠けて切れなくなった刃のことで
切り分けられない牛のことを「物」と呼んだのだ
また別の説では(「切り分けられない」ことがさらに進んだのか)
物とは「さまざまな種類の牛たち」を意味するのだという
(個物の切り分けではなく種の切り分けか)

これはおもしろい、たちまち希望が湧いてきた
その当否はともかく物がさまざまな存在であり
その影にさまざまな牛たちが潜んでいると考えることには
何か非常におもしろみを感じる
愉快なイメージだ
あらゆる動物は小さな牛に動かされ
あらゆる植物も小さな小さな牛に動かされ
それで生きているとしたら?

それを言い出せばフランス語のchose (もの)だって
ずいぶんひろがりがある
物質的な物ばかりではない
ラテン語のcausaに由来するとしてcausaは
理由、動機、動因、機会、条件、状況などの
すべてにまたがっている
ものに動かされ、ものに出会い
ものを見抜き、ものとともに生きる
そのすべての出来事と行動の陰に
さまざまな姿の小さな牛たちがいるとしたら?