過去に向かって

高橋悠治

いつか夏も過ぎている。2020年コロナが始まってから中止や延期されるコンサートが多いなかで、あまり影響を受けなかった方かもしれない。でも、いままで知らなかった音楽にはなかなか出会えないでいる。作ることもできないでいる。20世紀後半の音楽を演奏することから始めて、バッハなどピアノ以前の音楽をピアノで弾いてきたけれど、ここにまだ、これ以上の発見があるだろうか。

子どもの頃から、音楽を「基礎」から習うことはなかった。ピアノも練習がきらいだったし、作曲は柴田南雄からまず12音技法を習い、その後で16世紀のパレストリーナ対位法を教わったが、あとはなんでも好きに作曲していればよかった。別宮貞雄にフランスのアカデミックなハーモニー・対位法・フーガを習ったが、おもしろかったのはメシアンのモードやリズムのくふうだけ。それから同じ鎌倉にいた小倉朗に師事して、まず海岸に夜釣りに行くための自転車に乗ること、釣れないで帰って日本酒を飲むことを教わり、それからベートーヴェンのスコアを指揮者を見ながらピアノで弾く練習をさせられ、小倉朗のオペラの練習のピアノに雇われ、その後5年ほど二期会で働いた。

偶然現代音楽のピアニストになり、そこから電子音楽の作曲家になり、クセナキスやケージの紹介文から、似たようでまったく違う確率や偶然性の音楽を思いついて作っていた。それからドイツやスウェーデンに行き、ニューヨークやサンフランシスコに行き、どこにも落ち着かず、結局追い出されて、東京に戻ってきたが、それからもう50年も経っている。

11月からしばらくは、コンサートから離れて、音楽を考えるのではなく、平野甲賀が言っていた意味とはちがうかもしれないが、「ものを見て手を動かす」あそびにふける時間があるように、不安定に変化していく音の、かたちの崩れを追ってみたい。「練習」に目覚めるとしたら、不安定のまま、崩れかける気配が発見となるように。