犬狼詩集

管啓次郎

  103

砂嘴を歩いてゆくとどうしても強風で海に落ちてしまった
汐で白く枯れたトドマツが心を二度三度と励ましてくれる
湖面のような海面に二羽の白鳥が何度も潜ろうとしていた
カモメとカラスはそれなりに境界線を守り停戦を誓っているようだ
他に取り柄はないけれどパンや餅を切るのが上手な父親だった
効率のいい芸人だ、小さなパン屑で毎日歌ってくれる
夕方があまりに好きで次の夕方を見るためだけに一日を生き延びた
それから脇道に入り草原を歩いてゆくのに思ったより勇気がいる
太陽の図案とイソギンチャクがあまりに似ていて爆笑した
この色がマゼンタ、それを日没と見るのも生命の一要素と見るのも自由
ウォレットを開けるたびグアダルーペの聖母が光と安全をくれた
対岸の森はよそよそしさと親しみのちょうど中間に住んでいる
月輪熊と羆の共存地帯はこの島では永久に失われた
心を迂回させようと架空のギターをひとしきりスペイン風に弾いてみる
灰色狼とコヨーテの共存地帯を確認するため車で二百時間走ったことがあった
心を停め落ち着かせるためにいま昇ろうとするアンセルの月に挨拶する

  104

降誕せよというささやきに答えて生まれてきたのが何かわからなかった
肉桂を練りこんだパンに冷えた朝の体が火のように温められる
雪の降り始めに海の色が変わるのをついにたしかに目撃したと思った
島を横断する道路の舗装が途切れるところでダンテに挨拶する
フェリーとは渡し、フェリー乗り場には誰も人がいなくてさびしかった
岩陰に湧き出して止まらない濁った湯の味を正確に当てている
八月の平原の熱く静止した空気がなつかしかった
非常階段を八階まで昇る人の列と降りる人の列がぜんぜん途切れない
カメラがあってもそれをかまえることさえ許さない狂った強風だった
あれがVentouxだ、ペトラルカの山だ、と地元の教員が指さしてくれる
カモメたちが沖にむかって翼をひろげているのに逆に押し戻されていた
小石をいくつか積んで塔のように見せて昨年死んだ友人の名を呼んでみる
ノスタルジアとは笑うべきものでそもそもnostosにあたる土地がなかった
午後の公園のベンチでごろりと横になっている男は秘密の昼寝友達
ただ鍵を返すために誰も通らない山道を12キロも歩いていった
橋が流失したのでそれに代わる橋をミケランジェロのように設計する

  105

いま急に無意識が撹拌されあらゆることを同時に思い出した
懐中電灯をゆっくり振りながら深夜の街をグループで歩いてゆく
1センチ角の升目を24色で塗り30センチ角のタイルを4色で塗り分けた
きみが木目を見せてくれるならそのとき私は私自身の年輪を見せてもいい
あらゆる通信はなぜか試行段階でうまく行っても本番となると失敗した
東京の夜との会話を北海道で体験し両者のやりとりを沖縄本島北部で聴く
リアルタイムという言葉の意味が昔の国際電話ではまったくちがった
質問に答えられずにいると必ず電話がかかってきて窮地から救ってくれる
町と町外れと砂漠の区別がない町だった
スペイン語のpesadillaはpesarという動詞から来るのでいかにも重い
子供のころマスティフを飼っていていまはピットブルだと老人がいった
枯葉が渦巻く街、粉雪が渦巻く街、何もない街、を同時に体験する
切れかかった電球が点滅するたびに時間を駆け上っていった
拾った貝をむりやりこじ開けるとき時々真珠が見つかる
交差点で人と魂が迷わないようカモメの羽根を使って方角をしめした
ストライプのネクタイ、無地のネクタイ、無地への剥落、無知の涙

  106

夕方に空を見上げるといくつもの耳が空に浮かんでいた
ぶなの森に行きドングリをしきつめて健康的な寝台にする
綴りを変えれば「死」と「犬」のアナグラムを作れる言語だった
就職のための推薦状を思い切って気象学者に頼んでみる
ウィーンに住んだ半年だけがツェランのドイツ語生活だった
私の郷里には民謡がなくただ濁った川の流れがある
初雪の降る島のフェリー乗り場に白い雌犬が四匹の子犬とともにいた
赤い野生のケシを傷つけてしみだす白い汁を乾燥させ舐めてみる
硫黄の匂いが立ちこめる湖をぼんやりした気持ちで漕いでいった
クリスマスの雑踏で死んだ友人を見かけると思わず名を呼ぶしかない
雨が雪に変わる瞬間空が明るくなった
星は見えないときもそこにあり光も変わらない
きみの言語にはその倍音としてきみの祖母のことばがあった
私の沈黙には今後その倍音として津波のどうどうという響きが聞こえる
消えてしまったものを受け取るにはどうすればいいかわからなかった
空にときどき不思議な光が現れその特有な音楽が聞こえることもある

  107

里に住むヒトとケモノの文字的なかけひきだった
シマからシマに行くのに島の中でも一般に小舟を使っている
私の言語は貝にも鴎にもなかなかうまく通じなかった
ミクロだ、それは小さい、それがきみの世界観
収穫祭を終えるために女たちがそろって餅をついた
新しい土地に住むたび新しい訛りと挨拶を覚える
砂漠を否定するものが庭ならここも庭と呼んでよかった
「ママ」を必ずつけて呼ばれる一群の巨大な女性たちがいる
人が住まなくなった家屋の裏手で蛇口が生きていた
魂が撮影可能であることを証明するために雲の底辺を飛んでみる
Windshieldだろう、「風防」だろう、最高の発明じゃないか
人生の半減期に沿って理想都市を村のように偽装する
雑踏で聞こえるあらゆる発話をクロノメ―ターで計測した
何ということもないおしゃべりなのに録音して何度も聞き直す
だが南の海にはたしてシーラカンスが住むのかと思った
宮古では島言葉をスマフツといいそれ自体歌のように大切にされる

  108

いきいきとした言語はすべてb音で始まるんだよと教わった
乳児が最初に声を出すとき心が毛糸球のようになる
作者に私がいるとして私は雲の作者ではなかった
港町といっても漁港、トンビが空を舞う毎日だ
大西洋便の飛行機で合計どれだけの物語が夢見られているかわからなかった
きみの絵画は物語のある絵画でそれは青みがかっているね
農村と漁村がバスク語で会話し都会がスペイン語で沈黙した
ほらもってけ、と大きな鰹をくれた漁師の気前のよさ
世界と世界の接合を体験するのが夏休みや海水浴の意味だった
過去を過去として留めずその噴出を思いきり楽しんでください
海鳥と海亀と海の色が海流によってひとつに溶けた
きみの都市のテロリストは移民たちの言葉により抑制されることがある
潮がみちて身動きがとれないため互いに虱をとって待った
黒い肌の子(セネガル人)がバスク語で答えることは土地の新たな栄光
ピッツァを食べながら子供がいきなり登場するのを待った
あああの子ならセーターを着たまま港の水に身を隠しているよ