阪本順治監督の最新作「せかいのおきく」が4月28日よりロードショウ公開されている。
今回は、白黒の時代劇。明治まであと10年という江戸末期を舞台にした青春映画だ。
溌溂とした青春というわけにはいかないけれど、主人公たちが「これからの人たち」なのだから、やはり「青春映画」と呼びたい。
黒木華演じる主人公「おきく」は、今は落ちぶれて長屋暮らしをしている武家の娘だ。母はなく、何かの理由でお家断絶に追い込まれてしまった父と2人暮らしだ。近くの寺で子どもたちに読み書きを教えている様子から、名家に生まれたらしいとわかる。今は長屋暮らしだけれど、周囲の人たちに溶け込んで、境遇を苦にせず、けなげに父を助けている。その「おきく」さんが、雨宿りをきっかけに2人の青年と出会う。羅生門を思い出させるような雨やどりの場面が印象的だ。紙くずを集めて紙屋に売る「紙くず拾い」の中次と糞尿を買い取って近郊農家に売る仕事をしている弥亮の2人だ。映画のパンフレットを引用すれば「わびしく、辛い人生を懸命に生きる3人は、やがて心を通わせるようになっていく」のだ。ご飯を食べて排泄するのは人間だれしも平等なのに、この社会で排泄物を片付けるという一番大事な仕事をする者が蔑まれ、邪険にされるという矛盾。その不合理を黙って引き受けて生きている弥亮を池松壮亮が魅力的に演じている。
当初短編映画として企画していたものを、撮影するうちに手ごたえを感じて長編にしたとのことで、第一章むてきのおきく(安政五年・秋)、第二章むねんのおきく(安政五年・晩冬)、第三章恋せよおきく(安政六年・晩春)というように題字が入り、物語が展開していく。章が変わる直前に、カラーの映像が少し挿入される。第一章の終わりでは、顔を洗う黒木華のアップがカラー映像に変わって、彼女の着物の色合いとともに、娘ざかりの素顔が美しくてハッとした。
おきくは、追ってきた侍に父を殺され、口封じのために喉を切られて声を失ってしまう。黒木華の演技は、後半、セリフの無いものとなる。一方読み書きができない中次は、自分の気持ちを言葉にして表すという事がうまくできない。話したり書いたりというコミュニケーションを奪われている二人の心の通い合いにセリフは使えない。セリフで説明しない阪本映画の真骨頂がここから始まる。
阪本映画を見ていて、泣いてしまうことが度々ある。「泣くところあった?」と聞かれることも多いのだけれど、物語の筋に泣いてしまうというのではなくて、俳優の佇まい、ふとした体の動きに胸を打たれて泣いてしまうのだと思う。阪本映画の良さは、たとえば「人間の真剣さ」や「まごころ」のような目に見えないものを横顔や、立ち居振る舞いによって見せてくれるところなのだと思う。そこに人間の美しさを感じて、いつも涙が出てしまうのだ。
おきく、中次、矢亮の三人のこれからがどうなっていくかまだわからないけれど、もうすぐ明治になると分かっている時点から見れば、もうすぐ士農工商も無くなって、自分の力一つで切り拓いていける世の中になる、きっと三人は自分の力を発揮していくだろう、もっと広い「せかい」に出ていくだろうと明るい未来を感じることができる。
コロナ禍で、辛い毎日を生きている若い人たちの姿を重ねてこの映画を見ることもできるだろう。日々懸命に生きている現在の若者への励ましも込められているこの映画を、心にしまっておきたいと思った