『この世界の片隅に』の想像力

若松恵子

じわじわと観客数を伸ばしているアニメ映画『この世界の片隅に』(監督・脚本片渕須直)を2016年のうちに見ておきたかったので、年の瀬の映画館にでかけた。

映画の冒頭、主人公すずの小学生の頃の想い出から始まる画面、幼かった主人公、のどかで平和な頃の広島の風景を眺めただけで何だか涙が出てきてしまった。夕暮れの海の色合いなのか、映画の底に流れている思いに触れたせいだったからなのだろうか。

映画は、2009年に「漫画アクション」に連載されたこうの史代の作品を原作にしている。昭和18年から21年の日本、18歳で広島から呉に嫁いだ主人公の生活を淡々と描く。戦前、戦中(広島の原爆投下も含む)戦後という時代のなかで、少女から大人になっていく主人公をゆっくりと描く。

単行本化された漫画のあとがきの言葉を私は重く受け止めたい。
「わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるかどうかわかりません。他者になった事もないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかもしれません。そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で悲劇の重さを量らねばならぬ「戦災もの」を、どうもうまく理解出来ていない気がします。そこで、この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。(中略)この作品は解釈の一つにすぎません。ただ出会えたかれらの朗らかで穏やかな「生」の「記憶」を拠り所に、描き続けました。」(こうの史代著『この世界の片隅に 下巻』(2009年4月 双葉社刊)

原作者も監督も、戦争を直接経験した世代ではない。しかし、「自分だったかもしれない」他者の生への尊敬と共感をもって想像力で描かれたこの作品にはうそが無い。

絵が上手で、でもそれが職業に結び付くなんて思いもしない時代に生きた主人公のすずは、こうの自身だったかもしれない「生」だったし、遊郭に売られたりんとすずの心が通い合う場面を見ると、すずがりんを自分だったもしれない「生」として心を寄せているようにも感じる(無意識であったかもしれないが)。

世代を受け継いで生まれてくる人間は、前の時代を生きた人間と無関係ではないし、同じ時代を生きている人間とも無関係ではない。時代や空間を越えて存在する「自分だったかもしれない無数の生」に共感しながらも、人はたまたま生まれた時代や境遇を懸命に生きるしかない。『この世界の片隅に』に描かれるのは、ヒーローではなく、戦争の時代にも関わらず「朗らか」で「穏やか」な「生」だ。時代や状況に踏みにじられるばかりではない人間の尊さというか、戦争でも踏みにじることができない人間のきらめきというものを感じて胸を打たれた。

そして、時代にも関わらず「穏やかに」生きられるためには、出会うものとか境遇だとかに必要以上の運命や物語を感じない事も大事なのではないかとも思った。すずは見初められて嫁ぐのだが、強い意志があったわけではない。見初められるきっかけとなるエピソードはあるが、夫になった人も、無理なことをしてしまったのではないかとずっと迷っている。ふとしたきっかけ、たまたまの出逢いであっても人はそこから絆を結んでいく。「あなたと出逢ったね」という関係になっていく。ヒーローや劇的出逢いの物語を見すぎて、ずっと誰かを待っているより、このすずの物語がいい。

都合よく時代や立場が入れ替わってしまう「君の名は。」とは違う想像力を、『この世界の片隅に』に感じた。戦争を直接体験した世代が居なくなってしまったとしても、こういう想像力があれば希望が持てるのではないかと思った。